メッセージ - 混じってきた雑多な民(出エジプト記12:37-51)
礼拝説教メッセージ音声:混じってきた雑多な民(出エジプト記12:37-51):右クリックで保存
『さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。』(出エジプト記12:37)
ラメセスは、パロがイスラエルを苦役で苦しめるために建てた倉庫の町である(1:11)。イスラエル人はそこから全員出て行ったため、その奴隷の倉庫の町はゴーストタウンと化した。
エジプトから出てきた民は、成人男子だけで60万。という事は、女子供も含めると200万を超すと思われる。
そこからさらに多くの入り交じってきた民も加わり、また非常に多くの家畜も連れ登ったため、それはそれは壮大な集団となった。
『そして彼らはエジプトから携えて出た練り粉をもって、種入れぬパンの菓子を焼いた。まだパン種を入れていなかったからである。それは彼らがエジプトから追い出されて滞ることができず、また、何の食料をも整えていなかったからである。』(出エジプト記12:39)
彼らが携え持ってきた食料は、たったそれだけである。
荒野を旅する内に、食料や衣類が欠乏するのでは、と心配した人もいたかもしれない。
しかしどういうわけか、食料が欠乏して餓死する者が出た記述は一切なく、人々は荒野でも、しっかり主に養われたのだ。
私達も主にあって、何を食べようか何を着ようかと言って心配する必要は、一切ない。
『イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。』(出エジプト記12:40)
主はアブハムに、あなたの子孫は四百年の間苦しめられると言っていた(創世記15:13)。という事は、イスラエル民族がエジプトで良い待遇を受けられた期間は、わずか三十年だったのだろう。
ヨセフも臨終の時「神は必ずあなたがたを”顧みて”、この国から連れ出し」と言っているため、もしかしたら、ヨセフの時代から既にエジプトからの圧政が始まっていたのかもしれない。
『主はモーセとアロンとに言われた、「過越の祭の定めは次のとおりである。すなわち、異邦人はだれもこれを食べてはならない。しかし、おのおのが金で買ったしもべは、これに割礼を行ってのち、これを食べさせることができる。』(出エジプト記12:43-44)
過越祭の小羊は、異邦人は食べてはならない、とここで言われている。それはイスラエル人がエジプトを出る時、多くの異邦人も入り交じって来ており、その雑多な民と区別するためである。
なぜ区別が必要か。それは、異邦人はイスラエル人と違い、まことの神である主を恐れるという事が無いからである。
このエキサイティングな脱出劇の中で、この民について行けば色々なメリットがありそうだ、というだけでついて来た異邦人は、多かった。
特に教会において陥りやすい罠だが、人数が増えれば良いというものではない。
その大勢いる人の全てが、純粋に主を慕い求めているとは限らないし、この入り交じってきた者達が、イスラエルにいらぬ情欲を起こさせ、神を怒りを招き、災いの発起となってしまった事が、幾度かあったからだ。(レビ記24:10、民数記11:4)
入り交じってきた雑多な民は、余計な事を言って主にある交わりに余計な怒りやいらぬ欲望を持ち込ませ、本来ならつまづかないような者をも、躓かせてしまった。しかし、主は彼らを荒野で篩い落とされた。(レビ記24:23、民数記11:33-34)
しかし、異邦人は決して過越の小羊にあずかれないという訳ではない。
異邦人が過越の小羊にあずかるためには”割礼”を受ける必要がある。
割礼とは、肉(生来の罪に傾く性質を持っている肉体の力や考え方など)を削ぎ取る事である。
割礼のしるしは神との契約のしるし、すなわち契約書の印鑑のようなもので、それは世々に渡って守るべきであり、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている程、大切な事である。(創世記17:9-14)
故に、過越の小羊は、興味本位で食べて良い物ではなく、神の民に加わるためには、生涯主に仕えるというコミットメントと、みずからの肉を切り落とす覚悟が必要なのだ。
キリストにあって救いの道が示された現在、割礼は”洗礼”に相当し、過越祭の食事であるほふられた小羊とパンは、まことのほふられた小羊キリストにあずかる”聖餐”に相当する。
聖餐も、むやみに興味本位であずかって良いものではない。
聖餐にあずかるには、自分の肉欲を切り取る決意、すなわち十字架を背負う決意と、生涯主に仕えるコミットメントが必要なのである。