メッセージ - 手のしるし、額のしるしとして(出エジプト記13:1-16)
礼拝説教メッセージ音声:手のしるし、額のしるしとして(出エジプト記13:1-16):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々のうちで、すべてのういご、すなわちすべて初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである」。』(出エジプト13:1)
元来、全てのものは主が創られた故に、主のものであるが、だからと言って、私達に全てを捧げよとは要求されず、最初のもの、すなわち初物を主のものとして(聖別して)捧げるように定められた。
3節から10節の所は、種なしパンの祭りについて、モーセが主から受けた事を、民に伝えている。
『その日、あなたの子に告げて言いなさい、『これはわたしがエジプトから出るときに、主がわたしになされたことのためである』。そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(出エジプト記13:8-9)
一体なぜ、「主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出された」事が、種なしパンへと結びつくのか。
それは、主がエジプトから脱出させて下さった時に、パンに種を入れる暇が無く、パン種を入れないまま焼いて食すしか無かった事を覚える意味もあるが、パン種は元々、聖書では良い意味で用いられていない。
主もパリサイ人やサドカイ人のパン種に気をつけるように、すなわち、御言葉に人間の教えを混ぜ込んで不純にしてしまう「パン種」に気をつけるよう言われた。
『そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、”主の律法をあなたの口に”置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(出エジプト記13:9)
この、パン種の入っていないパンは、よく口で噛み締めなくてはならない。
イスラエル民族は7日間、種なしパンをよく噛みしめて味わっていたが、同じように、御言葉という純粋なパンも、昼も夜もじっくりかみしめて味わう事によって、主はイスラエル民族に御言葉をじっくり味わう事を、体験的に実施させ、学ばせていたのである。
11節から16節までの所では、モーセは民に、初物は主のものであり、贖う必要がある事を伝えている。
『あなたは、すべて初めに胎を開いた者、およびあなたの家畜の産むういごは、ことごとく主にささげなければならない。すなわち、それらの男性のものは主に帰せしめなければならない。また、すべて、ろばの、初めて胎を開いたものは、小羊をもって、あがなわなければならない。もし、あがなわないならば、その首を折らなければならない。あなたの子らのうち、すべて、男のういごは、あがなわなければならない。』(出エジプト記13:12)
ここでは全て初めに胎を開く者、および、家畜の初子についての指示をしているが、特に、ろばという動物についての指示をしている。
色々な動物がいる中で、なぜ、ろばなのだろうか?
ろばは、イエス様をお乗せしてエルサレムへ入城した動物として有名で、イエス様を乗せて運ぶ者、すなわち、神の国の働き人を示す比喩として良く用いられている。
神の国の働き人は、小羊イエス様の血によって贖われている事が必須条件で、そうでなければ、首を折らなければならない、すなわち、働き人たる事は、止めなくてはならないわけだ。
また、種なしパンの時と同じく、初物を捧げる事も「手」と「目の間(ひたい)」のしるしとして、いつも覚えておかなくてはならない、と定めている。(出エジプト記13:14-16)
「目の間(ひたい)」という部位は、その人が誰に属するかという「しるし」が置かれる所であり(黙示録13:16、14:1)、「手」は、思いの内にある事を実際に働く部位である。
私達も、種を入れぬパンを覚え、初物は捧げるべき事を覚え、それを実際に行動する時、私達は「神のものである」という”しるし”があるのだ。