メッセージ - お言葉通りこの身に成りますように(ルカ1:26-56)
お言葉通りこの身に成りますように(ルカ1:26-56)
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マリヤはガリラヤ・ナザレの地に住んでいる、ごく普通の若き処女だった。
そこへ、あのザカリヤに現れ、ザカリヤを恐れさせた御使いガブリエルが突如マリヤに現れ、言われた。
「恵まれた女よ、おめでとう(直訳:喜べ)、主があなたと共におられます」(ルカ1:28)
普通に暮らしている所に、突拍子もない人(御使い)がいきなり現れ、突拍子もない事を言われたので、マリヤは当然、一体何のあいさつかと考え込んだ。
どういう訳で自分は「恵まれた女」と呼ばれるのだろう。「おめでとう(喜べ)」とは、何についてなのだろう。
御使いは、もっと突拍子もない事を告げた。マリヤは身篭って男の子を産み、その名はイエスとつけるべき事、その子は優れた者、いと高き方の子と呼ばれ、神は彼に永遠のダビデの王位を与えられるというのだ。
処女がみごもる、というしるしはイザヤによって告げられていたが、マリヤがそれに当選した、という知らせが来た時、彼女は非常に微妙な時期だった。相手がいない時期でもなく、結婚した後でもなく、よりによって婚約期間中という最もタイミングの悪い時だったのだ。普通人の感覚では、とても「おめでとう」ではない。
モーセは神から呼び出しがかかった時、嫌がったし、ギデオンもサウルもエレミヤも、そうだった。
人は、ささやかな幸せを得たいと思う。貧しいながらも誠実な婚約者ヨセフともうすぐ一緒になろうとしている、でも、それが覆されてしまうかもしれない、最悪、拒絶された挙句、姦淫のかどで石打になってしまうかもしれない、と、マリヤが心配性だったら、そこまで先を計算しただろう。
しかし、マリヤの返答には一切そうした計算はなく、ただ単純な、しごく当然な質問を返しただけであった。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(34節)
御使いは答えた。「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。」
その子は聖霊によって、人間の力の及ばない、いと高き神の力によって、マリヤの胎に宿るのだ。
そして御使いは「神にとって不可能なことは一つもありません」と言った。
神にとって不可能は無い。そう、マリヤをその御手で包んで下さる神に、不可能は無いのだ。
処女が身ごもる、という、一見不可能な事も可能となり、愛するヨセフとの事も、社会からの目も、すべて、いと高き神の力によって守られるのだ。
そこでマリヤは言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」
マリヤは突拍子もない主の言葉にアーメンと信仰告白し、あらゆる面での守りと必要の満たしを勝ち得た。
彼女はエリザベツと話した時、嬉しくて嬉しくて賛美せずにはいられなくなり、自分は、どの時代の人々もうらやむ幸いな者だ、とさえ言って、喜び叫んだ。(46−49節)
人から見れば、それどころではない状況かもしれないが、信じる者には、世の何者も邪魔できない喜びと状況に左右されない平安に満たされる。それは、私達信じる者すべてに与えられる守りである。主のお言葉を信じる者には、その信仰告白どおりに成り、主のお言葉どおり、その身に成るのである。
私達キリストを信じる者に、主が用意しておられる事は、スケールが大きすぎて、とてつもない事である。
皆さんはキリストにあって、自分の頭に納まるささやかな幸せを得たいという低空飛行の堂々巡りを捨てて、それを遥かに上回る幸いを得る為に、信仰をもって一歩踏み出す覚悟は出来ているだろうか。
皆さんはキリストにあって、モーセよりダビデよりヨブより偉大な者だとの認識があるだろうか。(ルカ7:28)
皆さんは既に死んでおり命はキリストと共に神の内に隠されているとの認識があるだろうか。(コロサイ3:3)
パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、現在のものであれ、未来のものであれ、キリストにあって全て私達のものだとの認識があるだろうか。(1コリント3:21-22)
皆さんはキリストの中で共に復活され、共に天上に座らせられたという認識があるだろうか。(エペソ2:6)
信じる者には、イエスの御名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置けば癒される、という認識があるだろうか。(マルコ16:17-18)
私達に必要なのは、この告白である。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」御言葉をそのまま信じ、書かれてある事がそのまま信じている通り、その身になる皆さんでありますように!