メッセージ - 信仰が試される時(出エジプト記14:10-18)
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エジプトは主が力強く大いなるお方である事を忘れ、リベンジをしようと、牙を剥き出して襲って来た。
しかし、敵がそのように必死で襲いかかってくる時は、敵の最後が近い時期である。サタンが自分の最後が近い時に、もっとも怒り狂ったように。(黙示録12章)
『パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、かつモーセに言った』(出エジプト記14:11)
イスラエルの民はエジプトから出る時、主が共におられ、守られ、導かれている故に、意気揚々としていたはずなのに、いざ、目の前にエジプトの軍隊が追って来るのを見たとたん、泣き言を叫んでしまう。
「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。(出エジプト記14:12-13)
イスラエルの民は一体いつ、モーセにそんなことを言っただろうか?
敢えて言うなら、まだ主がエジプトに一つも災いを下されていなかった時、モーセがパロと一番最初にやり取りして、かえって煉瓦焼きの労働がきつくされてしまった時だろう。(5:21)
だが、主がそれ以降、立て続けにエジプトに災いをくだされて以来、もはや誰もそんな泣き言は言わなかったはずだ。
主が御業を働かせている間は何も言わないのに、目の前の状況が芳しくなくなると、主のして下さった良きことは一切忘れ去り、それでなぜかずっと以前に自分が発言したマイナス思考な内容だけは覚えていて、さも自分の預言が的中したかのように騒ぎ出し、偉ぶり、隣の信仰の同僚さえくじかせる。
私達も信仰が試された時、彼らのように信仰の先輩に向かって「主はどこにいる」とつぶやいていないだろうか。
主が敵を順調に懲らしめている内は、喜んでついて来るのに、いざ、敵の馬や戦車が砂埃を巻き上げながら目の前に迫ってくる現実を見るや、今まで主がいかに守って下さったのか、いかに力強いお方であったかが、一瞬でどこかに吹っ飛んでしまい、いらぬ事をつぶやいてしまう。
約束の地、乳と蜜の流れる安息の地に入るには、試練を経て、信仰という代価を支払う事が必要なのだ。
私達はこのような試練の時、いかなる行動を取れば良いのだろうか。
『モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。』(出エジプト記14:13)
モーセが言った事のポイントは「恐れるな」「しっかり立て」「主の救いを見よ」「黙れ」であった。
信仰の試練の時は、まず恐れない事。しっかりとキリストという土台の上に立ち、心配事を語りたい唇は黙らせ、主の救いを見ている事である。
この時点、主は何らかの方法で救って下さる事は示されていたが、具体的にどのような方法で、というのはまだ知らなかった。
主はどのように指示されたか。
『主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。』(出エジプト記14:15-16)
主はまず、主の御前でざわついている民とモーセに「なぜ叫ぶのか」と言われ、進むように促された。
どこに歩を進めるのか? それはなんと、海にである。道が無いと思っていた所へ、行け、と主は指示される。
主はモーセに杖を差し伸べさせ、海を分け、乾いて道になった所を踏み行かせるよう指示したのだ!
『わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。』(出エジプト記14:17-18)
主は言われる。進め、と。
しかも、パロとすべての軍勢、その戦車と騎兵とによって、栄光をお受けに成る、と言われた。
どのようにしてか?
それはこの時点、モーセも民も、まだ知らない。
主の導きは、足元を照らす灯火のように、先の先まで見ることはできない事が、よくある。
その時、人は、主が具体的に何を起こされるのかは知らなくても、信頼して歩んで行く必要があるのだ。
そうして主と共に歩み続けた道を将来振り返る時、主は確かに生きて働かれ、人の知恵を遥かに越えて素晴らしい導きをなさったのだと、人は知るのである。