メッセージ - モーセの歌(出エジプト記15:1-18)
礼拝説教メッセージ音声:モーセの歌(出エジプト記15:1-18):右クリックで保存
イスラエル民族は遂にエジプトに完全勝利し開放された。
そんな彼らが真っ先にした事は、歌だった。
『そこでモーセとイスラエルの人々は、この歌を主にむかって歌った。彼らは歌って言った、/「主にむかってわたしは歌おう、/彼は輝かしくも勝ちを得られた、/彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、/彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、/彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる。』(出エジプト記15:1)
モーセとイスラエルの民は、主のなされた偉大な御業を、歌わずにはおれなかった。
人は感動すると、その事を言葉で伝えるだけでは飽きたらず、歌にして感動を分かち合ったり、伝えたりする。
歌とは不思議なものである。
ある歌を聞けば、すぐにその歌の時代の心情になれるし、自分が生まれていない時に作られた歌であっても、共有できる内容であれば、すぐにその歌を作った人と同じ感情になれる。
聖書は歌で満ちている。詩篇はもちろん、創世のはじめから黙示録に至るまで。
創世のはじめ、この世界の土台が造られた時、明けの星々や神の子達の喜びの歌が溢れていたのを、ご存知だっただろうか。(ヨブ38:7)
そして永遠に至る時代も、完成した聖徒達の賛美で溢れている事が、黙示録に記されている。
『主はいくさびと、その名は主。彼はパロの戦車とその軍勢とを海に投げ込まれた、/そのすぐれた指揮者たちは紅海に沈んだ。大水は彼らをおおい、彼らは石のように淵に下った。』(出エジプト記15:4-5)
イスラエルの民は、つい何日か前まで、そのエジプトの指導者たちによって苦しめられていた。
その頃は自分を追いやる彼らは、決して歯向かう事の出来ない、雲の上の人のような存在だったかもしれない。
つい数時間前、彼らは圧倒的兵力を頼りに自分達を蹂躙しようと向かって来たのだが、今や彼らは、海に沈んでいる。
それは、イスラエルの内におられる、力強きお方が、そうされたから。
その喜びはどれほどであっただろう。
『あなたの鼻の息によって水は積みかさなり、/流れは堤となって立ち、/大水は海のもなかに凝り固まった。敵は言った、『わたしは追い行き、追い着いて、/分捕物を分かち取ろう、/わたしの欲望を彼らによって満たそう、/つるぎを抜こう、わたしの手は彼らを滅ぼそう』。あなたが息を吹かれると、海は彼らをおおい、/彼らは鉛のように、大水の中に沈んだ。』(出エジプト記15:8-10)
エジプトは、イスラエル人を殺し、分捕りものを奪う気満々だったが、主は、ご自身の「鼻の息」によって正しいさばきをなされた。
主の息、聖霊の風は、人を生かす。
アダムが創られた時も、その鼻に息を吹き込む事によって生きた人間となったし、ノアの時代も、地の上を覆う水は、主の息吹によって退かせられた。
そして今回、主はその鼻の息によって、イスラエルとエジプトをより分けられた。
主の風は脱穀場からもみがらを吹き飛ばし、有用な実は残って主の倉に納められるのである。
『主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、/だれがあなたのように、聖にして栄えあるもの、/ほむべくして恐るべきもの、/くすしきわざを行うものであろうか。』(出エジプト記15:11)
この歌と同じ内容が、黙示録でも、モーセと小羊の歌として歌われている。(黙示録15章)
出エジプト記でも黙示録でも一致している事は、歌う人達は、大きな患難から神によって贖われた人達で、海のほとりに立っており、神が偉大な業をなされた事を喜んで歌っている事である。
私達もまた、信仰の先人たちが作った詩と賛美と霊の歌とにより、あるいは新しい歌により、感謝にあふれて心から神に向かって歌うのである。
キリストのことばを豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒めつつ地上での人生を歩み、かの日には、あの白い衣を来た群衆と共にガラスの海のほとりに立ち、とこしえに神を褒め称える皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!