メッセージ - マラの苦い水(出エジプト記15:19-27)
礼拝説教メッセージ音声:マラの苦い水(出エジプト記15:19-27):右クリックで保存
『そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手に取り、女たちも皆タンバリンを取って、踊りながら、そのあとに従って出てきた。そこでミリアムは彼らに和して歌った、/「主にむかって歌え、/彼は輝かしくも勝ちを得られた、/彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた」。』(出エジプト記15:20)
ミリヤムはモーセやアロンの姉、という事は、彼女はこの時90歳くらいであったろう。彼女は女達の先頭に立ち、共に和して歌い踊っていた。
男も女もとても大きな喜びに満たされて、主を喜び祝っていた様子が伺える。
ところがその3日後、賛美していた唇は、つぶやきを発するようになってしまう。
エジプトの軍隊が沈んでいる紅海のほとりを出発し、緑も水もない荒涼とした岩砂漠を3日間歩き、やっと水を見つけた、と思ったら、それは苦い水だったのだ。
『さて、モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった。彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。』(出エジプト記15:22)
人は、弱い存在である。
困難の時につぶやくのは、弱さある人間としては無理もないかもしれないが、この時、イスラエルの民は、必要の満たしを求めるべき相手を間違っていた。
本来なら必要の満たしは神に求めるべきなのに、彼らは人間の指導者であるモーセに求めたのだ。
人は何かと、牧師や霊的指導者などの「人間」に頼りがちである。
なぜなら人間なら話せば聞いてくれるし答えてくれるし、ことに、相手がやさしく謙虚な人であれば、文句もぶちまけやすい。
時には、レストランのサービスがなっていないと怒鳴るような感覚で、神のサービスはなっていないと「人間」にぶちまける者さえある。
しかし、目に見える人に頼るなら、必ずと言っていいほど失望させられる。
『目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。』(ローマ8:24-25)
しかし、見えないお方である主に信頼する人は、決して失望させられる事は無い。(ローマ10:11)
神にではなく、モーセや牧師などの「目に見える人間」にいつまで経っても頼ろうとする人は、魚が釣れる人に「魚をくれ、くれ」といつも言っておきながら、自分は釣り方を覚える気が全く無い人のようである。
釣り方を自分で覚えて、より魚が捕れる技を磨くよりも、「くれ、くれ」とだけ言っている生き方は楽かもしれないが、いつまでも成長せず、いざという時は困ってしまう。
同じように、いつまでも信仰を働かせず「人間」にばかり頼っている者も、いざという時には困ることになる。
モーセは、目に見えないお方・全ての備え主である主に叫んだ。
『モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。』(出エジプト記15:25)
私達も、人生の中で砂漠を放浪した挙句に苦い水に行きあたってしまったような時は、人ではなく、主に叫ぶべきである。
そうするなら、苦い水は甘く変えられ、必要が十分に満たされるように導かれていくのである。
『こうして彼らはエリムに着いた。そこには水の泉十二と、なつめやしの木七十本があった。その所で彼らは水のほとりに宿営した。』(出エジプト記15:27)