メッセージ - 荒野での第一課程(出エジプト記16:1-10)
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イスラエルの民がエジプトを出て1ヶ月目、彼らはエリムとシナイの間にあるシンの荒野に入った。
その時、イスラエルの全会衆は、またしてもモーセとアロンにつぶやいた。
そのつぶやき内容の低俗さは、前回よりパワーアップしている。
『イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。』(出エジプト記16:3)
果たして彼らはエジプトで、肉鍋を囲んでパンに飽きたりていたのだろうか?
たとえそうだったとしても、彼らは「飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった」などと主を前に言うべきではないし、いつもパロと主の前に立ち民を導いていたモーセ達に対して「あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」などとは、言ってはならぬはずだ。
レビ記や民数記を見ると、イスラエルの民がつぶやいては災いに遭うという事を繰り返しているが、主は今回はいきなり災いを降すような事はせず、その民のつぶやきを聞いて下さり、そして言われた。
「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう。」(出エジプト記16:4-5)
イスラエルがパンや水が無い状況へと導かれた理由は、彼らが主の言葉に従うかどうか、試みるためであった。
主はなぜ、
人を試みるのか。そんなことせずに、人をそのまま両手放しで約束の地に入れれば良いのに、と思うだろうか。
しかし主は、分相応でない大きな事を、訓練も無しにいきなり預けるような事は、なさらない。
車の教習で、ハンドルを握ったことのない初心者にいきなり公道を走らせるような事はしないように、主もイスラエルに一つ一つの教習を与え、約束の地を継いで世界を祝福へと導くという、大きな”運転”ができるようになるまでに、訓練を与えておられるのだ。
その教習の第一課程は、「主が与える天からのパンを、日々、一日分を集める事。六日目には二日分を集める事」、それだけであった。
それを忠実に守るかどうか。主は見ておられた。
パンが降るのは、安息日を除けば、日毎である。
主は、信仰の初心者に、何年分もの財を一気に与えるような事は、ほぼ100%せず、日毎、主からの恵みを拾うこと、日毎、御言葉に従順する事を、地道に、じっくり体験させる所からはじめる。
人は思う。もしパンが一週間も降らなかったらどうしよう、餓死してしまったらどうしよう、と。しかし御言葉は言う。毎日パンが与えられるから、それを集めよ。六日目は二倍集めよ、と。
そうして日々、主の御言葉は必ず成って行くさまを人が見、また人が日々御言葉を守って行く事によって、主の御言葉に従順する事、主は確かで真実なお方だと信仰が強められていく事を、実地訓練していくのだ。
そのような地道な日々は、次の人には特に耐え難い毎日かもしれない。
すなわち、アクション映画の主人公のように、特殊な賜物を用いて華々しく活躍したり、何年分も不足なく暮らせるような大金がポンと与えられる事を、インスタントに求めるような人には。
主は、そのようなうずめく願望を萎えさせ、剥ぎ取る「第一課程」から始められる。
中には、そのような願望を何十年も握りしめ続けて、いつまでも第一課程を卒業できないでいる「クルシチャン」もいる。
『モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。』(出エジプト記16:8)
彼らはモーセとアロンにつぶやいたつもりだったが、実は、主につぶやいていたのだ。
「いったいわれわれは何者なのか。」そう、モーセに言っても無意味である。
『それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。』(出エジプト記16:10)
イスラエルの民は全員、見た。
アロンが語り終えたタイミングで、主の栄光が雲の内に現れたのを。
主が確かに民のつぶやきを聞かれ、その栄光を表された事を、誰もが見たのである。
よく、主からの奇跡や不思議を見たがる人はいるが、それを見たからには、責任が発生する事もまた忘れてはならない。
荒野の民は、この第一課程を、どのようにこなして行ったか。次回以降に見ていきたい。