メッセージ - 「これは何だろう」(出エジプト記16:11-21)
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主が約束しておられた通り、夕方にはうずらが飛んできてイスラエルは肉を得、朝には天からのパンが与えられた。
『その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。』(出エジプト記16:14-15)
彼らは神が与えて下さったパンを見て「これは何だろう」と言ったが、以降、イスラエルの民は、その食物のことを「何だろう」「what is this」(ヘブル語:マンナ)と呼ぶようになった。
つまりイスラエル民族は荒野で40年、それを「”何だろう”を集めに行こう」「”何だろう”を今日は煮て食べようか、焼いてたべようか」など言っていたわけである。
神が与えて下さった食物「何だろう」は、その名の通り、とても不思議な食物である。
朝、露が上がると霜のように降りて来て、うろこのような細かいものとして現れ、日が熱くなると溶けて無くなってしまう。
その分量は大人も子供も、一人一日一オメル(2.3リットル)で、ある者は多く、ある者は少なく集めても、なぜか全体で過不足無く集められてしまうのだ。
また、それを翌朝まで残しておくと虫がわいて悪臭を放ってしまうが、六日目に集めたものは、翌日も普通に食べられる。
その性質は、主が日々与えて下さる恵みの性質であり、御言葉の性質であり、それは私達が日々、必要とするものである。
それは朝の一定の時間に集めなければならなかったように、主の恵みにも、拾うことの出来る時期があり、その時期が過ぎてしまうと、もう拾えなくなってしまう。
そしてそれは1週間ごとでも1ヶ月ごとでもなく、1日ごとに集めなければならない。
御言葉は朝ごとに新しく、1週間前に御言葉を得たから暫くは摂らなくて良いというものではないし、また、人の必要は日々変わるように、その人に必要な御言葉もまた、日毎に変わるのだ。
イスラエルの民は、なぜ「これは何」を日々集め、食べなければならなかったか。申命記に書かれている。
「それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:2,3)
「これは何」は、何も食料には限定されず、時々に与えられている恵みに置き換える事が出来る。
パウロは、コリントの教会が献金する志が与えられた事を喜び、次のように書いた。
『今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである。それは「多く得た者も余ることがなく、少ししか得なかった者も足りないことはなかった」と書いてあるとおりである。』(2コリント8:14-15)
この時、コリントの教会には食料や富が与えられていたが、エルサレム教会では欠乏していた。それをコリントの教会が補う事によって、「多く得た者も余ることがなく、少ししか得なかった者も足りないことはなかった」という御言葉が実現するのである。
今、もし私達が必要以上に恵みを得ているとしたら、それは、不足を覚えているキリストのからだなる兄弟姉妹の欠乏を補うためではなかろうか。
天からのパンは今もなお私達に与えられている。それは、御言葉なるキリストである。
イエス様がパンの奇跡を行った後、群衆はイエス様に言った。
「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。(ヨハネ6:31)
私達もこの群衆のように、何かと日々の生活の必要を安定的に得たいと願いがちであるが、主は言われる。
「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネ6:35)
イエス様こそ、天から下ってきたいのちのパンである。
私達は御言葉なるこの御方を、日々集め、日々いただき、恵みの時・救いの時に兄弟姉妹と共に分かち合うのである。