メッセージ - メリバでの試み(出エジプト記17:1-7)
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シンの荒野を出てレフィディムで宿営し、主が示されていたホレブ山へと近づいたが、再び問題が起こった。水が尽きたのである。
『それで、民はモーセと争って言った、「わたしたちに飲む水をください」。モーセは彼らに言った、「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。』(出エジプト記17:2)
以前も水やパンが無かった時、民はモーセにつぶやいたが、主がその都度、必要を満たして下さった。
しかし、ここでも民は、主に叫ぶのではなく、モーセと争っている。
生きる上で必要な水を主に求めるのは正当だが、民は再三、主をスルーし、求めるべき相手をモーセとした。
モーセ自身「今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と主に叫んでいる事から、民のモーセに対する要求の激しさは、かなりものだったと分かる。
モーセ自身、民に水が必要で、水が無い事が危急の祈るべき課題である事は熟知していたし、祈っていた事であろう。
それなのに民は、モーセと一緒に祈るのではなく、モーセに叫び、激しく要求し、さらには石で撃ち殺そうとさえして、モーセを苦しめた。
危機的状況の時に、主に叫ぶ事をせず、霊的指導者のために執り成すことも一緒に祈る事もせず、ただその指導者にだらだら文句を言ってクレームする事は、火事の時にバケツの水を火にではなく指導者にぶっかけるような事である。
それは霊的指導者を二重苦に陥れるだけで、害悪以外の何者でもない。
そういう時は一緒に祈り、一緒に執り成すべきである。
主をスルーしモーセに文句を言う事を幾度も続けていた民の大部分は、約束の地に入る事はできず、荒野で屍を晒して行った。
『わたしは生きている。また主の栄光が、全世界に満ちている。わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう。』(民数記14:20-24)
荒野の民が主の素晴らしい御業を十度(明らかにそれ以上である)も経験しておきながら、なお主を試みて御声に聞き従わなかった結果、約束の地に入る特権を剥奪されてしまった。
同じように、主はいつまでも赦してくれると思って平気で主の嫌われる事をし続けるなら、御国に入る特権が剥奪されてしまうのだ。(ヘブル6:4-6、10:26)
それに対し、カレブは主が真実なお方であると民の前で信仰告白し、民に信仰に戻るよう説得した。
『わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません。』(民数記14:7-9)
カレブも、もしかしたらエジプトを出て数ヶ月しか経っていないメリバでの時は心配したかもしれない。
しかし彼は他の民と違い、荒野での道を進む度に、主がことごとく必要を満たし、敵からの勝利を与え、正しい導きをなさるのを見て、信仰的に学習し、ますます信仰を強めて行ったのだ。
私達もカレブのように、「信仰的に学習する姿勢」を持つべきである。この姿勢を持っているのと持っていないのとでは、後に大きな差となり、祝福の地に入れるか、入れないかの違いにまでなるのだ。