メッセージ - 重荷を分かち合う時は(出エジプト記18:1-12)
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(本日の引用は口語訳ではなく新共同訳からです。)
『あくる日モーセは座して民をさばいたが、民は朝から晩まで、モーセのまわりに立っていた。モーセのしゅうとは、彼がすべて民にしていることを見て、言った、「あなたが民にしているこのことはなんですか。あなたひとりが座し、民はみな朝から晩まで、あなたのまわりに立っているのはなぜですか」。』(出エジプト記18:13)
モーセたった一人が民の問題をさばき、さばきを必要としている他の人達は、自分の順番が来るまで待つ。
そのようなやり方をしている様を見て、イテロは物申さずにはおれなかったのだ。
『モーセはしゅうとに言った、「民が神に伺おうとして、わたしの所に来るからです。彼らは事があれば、わたしの所にきます。わたしは相互の間をさばいて、神の定めと判決を知らせるのです」。』(出エジプト記18:15)
確かに、神と人との間に立つ人にさばきをしてもらう事は、正しい事である。
しかし、このような体制だと、些細な訴えが頻繁になされ、いたずらに裁判が増えてしまい、本当に必要な訴えが、長時間の間、ないがしろにされたまま、という事が大いに起こりうる。
『今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。』(出エジプト記18:19)
イテロは元々、ミデヤンの祭司だが、前回の箇所を見ると、彼は主の御業を見て喜び、主はあらゆる神々に勝って偉大な御方である、という立派な信仰告白をしている。(10,11節)
そして彼の助言内容も、実に聖書的である。
『わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。』(出エジプト記18:19)
彼の助言で真っ先に来たのは、「あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ」る事。(19節)
つまり、モーセは諸々の小さい事を全部するよりも、まず、神と人との間に立って、執り成して祈る事に専念しなさい、というのである。
その次に助言した内容は「彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。」(20節)である。
すなわち、神のおきての何たるかを、神の側のスタンダードを、まず民全体に教えるべき事を勧めた。
そして第三に、民の長を立てて重荷を分散させるべき事である。
「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。」(21節)
この、民の長となるべき人の選考基準も、3つある。
その真っ先に来るのが、「神を畏れる」人。
そして「有能な人」であり「不正な利得を憎み、信頼に値する(誠実な)人物」。である事だ。
イテロは実に良いアドバイスをモーセに与え、その結果、モーセの重荷は軽くなり、かつ本当に重要な事が出来るようになったが、モーセは完全にそのアドバイス通りにしていなかったようである。
次の箇所に注目したい。
『全イスラエルの中から「有能な人々」を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。』(25節)
イテロの助言は、「神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物」を選考するはずだったのに、実際に、民の長として選ばれたのは、「有能な人々」としか書かれていない。
教会においても、指導者の立場に「神を畏れる人」よりも優先して「有能な人」を選んでしまうと、後々災いを招きやすい。
実際、コラの反逆の時、彼らは耳障りの良い言葉で有名人や有力者達を仲間につけ、神が立てた権威であるモーセと、神によって油注がれた大祭司アロンに反抗して立った。
神の国の運営においては、その人の信仰を確認せず単に「有能だから」という理由で安易に採用するのは、絶対に控えるべきである。
使徒時代の教会において、人数が増えるにつれて様々な問題が起きるようになった時、使徒たちは、どのような優先順位で事に当たったか。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」(使徒6:2-4)
使徒たちは、社会的弱者の配給がなおざりになっている時、自ら事に当たって解決するのではなく、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」と言った。
そしてその問題には、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」に当たらせる事に決め、自分達はもっぱら、祈りと御言葉の奉仕に専念する、と言ったのだ。
それは一見、冷たく聞こえるようだが、これこそ正しい優先順位である。
今日の教会で色々な不都合が起きている最たる原因は、この優先順位を取り違え、祈りと御言葉の奉仕をないがしろにして、社会的弱者の配給に心砕いているような所にある。
この奉仕者の選考基準で、真っ先に来るのは“霊”に満ちた人であり、そして知恵に満ちた、評判の良い人である。
霊に満ちた人であるなら、その人は直接神に伺い、神の基準に沿った正しい判断をできる。
神の国の奉仕者は、人の知恵に頼るものではなく、神よりも人の知恵を優先するような人は、教会の上に立ててはいけないのだ。