メッセージ - シナイ山到着(出エジプト記19:1-8)
礼拝説教メッセージ音声:シナイ山到着(出エジプト記19:1-8):右クリックで保存
モーセはかつて主に呼び出された時、「あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」と言われていたが、いよいよその山のふもとへと、イスラエル民族を導いて来た。
今日の箇所は、神とイスラエル民族が契約する前の、双方の最終確認で、モーセがその介在人となっている。
主はまず民に言われる。
『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。』(4節)
鷲が卵を産むと、親鳥は卵に覆い被さって温め、ひなをかえし、ひなを翼で覆って守り、巣の中で養い育てる。
ひながある程度育つと、今度は飛ぶ訓練をするために巣の中から落とし、落ちていくひながまだ飛べないと、その上に舞いかけ、羽に乗せて運ぶ。
そのように、主はイスラエル民族を一人の人アブラムから興し、その子孫を御翼の陰で覆って守り、はぐくみ、育て、エジプトという巣において、ある程度まで成長したら、今度は荒野の中へと導き、鷲が翼に乗せてひなを運ぶように、荒野の民を導かれた。
イスラエルは、その一連の奇跡と不思議を、ずっと見続け、経験して来た。
「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。」(5節)
主が大いなる御業を民に見せて来たのは「声に聞き従い、わたしの契約を守る」ためであった。
もし、その主の契約を守るなら「すべての民にまさって、わたしの宝となる」事が約束され、「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう。」(6節)
神はなぜ私達を選び、神の民という地位、王である祭司、聖なる国民という地位へと就かせたのか。(1ペテロ2:9)
「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(同10節)
会社で役職に就いたら給料は上がり、同時に責任も任される。それと同じように、神が私達を素晴らしい地位に就かせて下さるからには、神の栄光を伝えるという責任もまた伴う事を、忘れてはならない。
『民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。モーセは民の言葉を主に告げた。』(出エジプト記19:8)
しかし、民はその約束を守らなかった。
かえってエジプトに帰りたいと泣き叫び、モーセ達を石で撃ち殺そうとさえした。(民数記14章)
それで神は、約束を守らなかったその世代を、約束の地へ入ることをさせず、荒野で40年の放浪へと導かれた。
人は、神の定めた基準に到達する事は出来ず、律法からは、ただ人の中には罪がある事を示されるのみである。
しかし神は人を憐れみ、人が救われるようにと、新しい契約を授けて下さった。
『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)
神は律法を石版に書き記したが、人は、それを守る事が出来なかった。
そこで神は人を憐れまれ、律法を成就して下さる御方・イエスキリストを世に送られ、この御方を信じる信仰によって罪赦され、新しいいのちへと導かれる福音を与えて下さった。
その新しいいのちに生きる人は皆、律法を成就した者とされ、神の目に義とされるのである。