メッセージ - この聖なる主の御前に誰が立てるだろう(出エジプト記19:16-25)
この聖なる主の御前に誰が立てるだろう(出エジプト記19:16-25)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2013-1-7 21:46
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聖なる主が現れた時の光景は、実に恐ろしいものだった。
『三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。
シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。』(出エジプト記19:16)
主は焼きつくす火であり(ヘブル12:26)、かまどの煙のような煙が立ちこめ(創世記15:17)、煙と地響きが伴い(イザヤ6:4)、その御声は雷鳴のよう、ラッパのようである。(黙示録1:10)
主が災いを降される時、雷鳴と声といなずまと地震が起こる。(黙示録4:5)
主の側からの憐れみがなければ、人は誰一人、この聖なる主の御前に立ちおおす事は出来ない。
全山が揺れ動き、煙と雷鳴とラッパの響きの中、主は御声を発してモーセと語られ、モーセは主の御元へと召されたためシナイ山へ登った。
主は言われた。「下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、主のところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである。」
モーセは不思議に思ったかもしれない。主は既にそのように戒められていたし、そして、これほどの恐ろしい光景を目の当たりにしたのだから、誰もそんな気は起きないのではないか、と。
しかし、主が語られる事に、無意味は無い。
主がそう語られたからには、民のうちに不遜にも主を見ようと押し破って来ようとする者達が、確かにいたのだ。
それで多くの人が滅びる事にならないようにと、モーセに警告された。
主は、焼きつくす火である。
聖なる主の前に、人が罪あるまま出るなら、飛んで火に入る夏の虫のように、焼き尽くされて死ぬしか無い。
しかし主は、人から罪を取り除くために、御子イエス・キリストを世に送られ、その血潮によって、人が再び大胆に御前に出られるようにして下さったのだ。
『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19)
私達はイエス様の血によって、大胆に恵みの御座に就かづく事ができるようになった。
『あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。』(ヘブル12:18)
人は、そのままで主の前に近づけるものではない。
大祭司でさえ血を携えずには聖所に入る事は出来ないように、イエスの流された血が無いままでは、誰も主の御前に立ちえない。
それ故、イエス様が流された尊い血潮は、決して軽んじてはならない。
主イエスは私達を白くきよめるために、血潮を流されたのだ。
主の御前に出る時は、軽がろしく出るのではなく、おそれと畏敬の念を持ち、主の流された血潮によって身を清めて、そうして礼拝すべきである。