メッセージ - 十戒 第三戒と第四戒(出エジプト記20:7-11)
礼拝説教メッセージ音声:十戒 第三戒と第四戒(出エジプト記20:7-11):右クリックで保存
『あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。』(出エジプト記20:7)
十戒で三番目に重要な事は、主の御名をみだりに唱えてはならない、という事である。
主の御名を乱発し、同時に不誠実な行いも乱発する事によって、主を貶めている人は確かにおり、身勝手に御言葉を引用したり、神の名を振りかざして侵略の口実にしたり、戦争する者さえいるが、彼らは主に背く者、主の諭しを憎み御言葉を捨てている者である。
『神は背く者に言われる。「お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし/姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ/欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり/同じ母の子を中傷する。
お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。
告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」』(詩篇50:16-23)
主の御言葉を片端から唱える人が主に愛されるのではない。サタンでさえ御言葉を引用する。御言葉を口に出す人が主に愛されるのではなく、御言葉を心に留めて行う人こそ主に愛されるのであり、守る気も無いのにみだりに御言葉を連発したり、主への恐れも無いのにみだりに主の御名を連発する者は、主は罰せずにはおかない。
十戒の前三つは「するな」の命令だったが、第四戒は「せよ」という積極的命令である。
『安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。』(出エジプト記20:8-11)
創造の御業が完成した第七の日(土曜日)が安息日であるが、現代のキリスト者は、主日(週の初めの日、日曜日)を礼拝する日、主を覚える日として守っている。
それは、復活の主イエス様は主日に現れ(ヨハネ20:19-29、黙示録1:10)、初代教会の聖徒たちも主日に集って主を覚え、パンを裂き、祈り、交わりをし、聖徒のもてなしをしていた(使徒20:7、1コリント16:2)ためである。
ここで大切な事は、主が聖とされた日を「覚え」「聖とする」事、すなわち週の一日を主のものとして捧げ、その日は世の事は一切止め、主を覚える事である。
パリサイ人は「仕事をやらない」事を第一に考えたあまり、主の安息を「覚える」という事をないがしろにするという、本末転倒を演じてしまっていたが、私達もパリサイ人のように人間的な考えをこね回したり議論に明け暮れたりする事なく、安息日の主であるキリストを覚える日として、主に自分を捧げる日として、その日を聖別するべきである。
『だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。』(コロサイ2:16-17)
主が聖別された日を守る異邦人は、たとい宦官であっても、祝福される。
『安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。
主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―― わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。イスラエルの追いやられた者を集められる/主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。』(イザヤ56:2-8)
主日を聖別して主を覚え礼拝を守って来た聖徒達がいかに祝福されたか、歴史が証明している。
アメリカ開拓時代、人々は先を争って馬を走らせ、新天地へ向かって行ったが、結局、多くの土地を得たのは、昼夜休日も無く働いた人ではなく、主日にしっかり主を覚えて礼拝したクリスチャン達だった。
ただ、パリサイ人のような過ちに陥ってはならない。日曜は意地でも礼拝出席、という事ではなく、一週間の最初の日を初物として主に捧げるという心、主が聖とされた日を覚え、主を聖とし、主を敬う心こそ、大切である。
心から主を敬い、主の聖なる山における交わりに加えられ、主の祈の家のうちで楽しむ皆さんでありますように!