メッセージ - 幕の内側 - パンの机と燭台(出エジプト記25:23-40)
礼拝説教メッセージ音声:幕の内側 - パンの机と燭台(出エジプト記25:23-40):右クリックで保存
神を礼拝する場所「幕屋」とは、天幕によって仕切られた22.3mx44.5mの「大庭」と呼ばれる敷地内に、4.45mx13.35mからなる長方形のテントがあり、そのテントの中は二部屋に分かれ、入り口に近い方の長方形の部屋が「聖所」、その奥には、最も聖なる領域とされる「至聖所」と呼ばれる4.45m四方の部屋があり、聖所と至聖所は、幕によって仕切られている。
前回見た「契約の箱」は、この最も聖なる領域・至聖所に安置され、今回の箇所で見る「パンの机」と「燭台」は、聖所に置かれており、日毎の祭事に用いられるものである。
(聖所にはもう一つ、「香壇」が置かれるが、それは30章にて学ぶ。)
『あなたはまたアカシヤ材の机を造らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。』(出エジプト記25:23)
これが「供えのパンの机」の寸法で、センチメートルに直すと、長さ89cm、幅は44.5cm、高さは66.8cmである。
これにも金をかぶせ、4箇所に輪を付け、その輪に担ぎ棒を通して持ち運び可能なものとした。
『そして机の上には供えのパンを置いて、常にわたしの前にあるようにしなければならない。』(出エジプト記25:30)
この机には、常に、主の御前に十二のパンが供えられ、ひと重ねに六個ずつ、ふた重ねが置いており、おのおの重ねの上には乳香を置いて主の御前にささげている。
それは安息日ごとに整えられ、最終的にそれらはアロンとその子達の食べる分となる。(レビ記24:5-9)
現代、キリストにあって祭司とされた私達も、この幕屋の内に隠れた特別なパンにあずかる事が出来、主の働き人には、常にパンの養いを受ける保証がある。
『そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。』(ヨハネ6:32)
続いて燭台について、31-40節に記されている。
『また純金の燭台を造らなければならない。燭台は打物造りとし、その台、幹、萼、節、花を一つに連ならせなければならない。また六つの枝をそのわきから出させ、燭台の三つの枝をこの側から、燭台の三つの枝をかの側から出させなければならない。』(出エジプト記25:31-32)
つまり、一本の燭台を中心にして、右側に三本、左側に三本、真ん中を入れると合計7本が、それぞれ左右に弧を描くように枝分かれして、その全体は半円形のように見える燭台である。
この燭台には夕から朝まで、油を絶やす事なく、常時ともしびをともし続けなくてはならない。
『「イスラエルの人々に命じて、オリブを砕いて採った純粋の油を、ともしびのためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えずともしびをともさせなさい。すなわち、アロンは会見の幕屋のうちのあかしの垂幕の外で、夕から朝まで絶えず、そのともしびを主の前に整えなければならない。これはあなたがたが代々ながく守るべき定めである。彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主の前に整えなければならない。』(レビ24:2-4)
この燭台は、アーモンドの花の形をした三つの”がく”が、それぞれ節と花をもって一つの枝にあるようになっている。(出エジプト記25:33)
アーモンドはヘブライ語でシャケデ、エレミヤ1章ではシャカデ(見張る)という言葉と掛けて使われており、黙示録では、この7つのともしびは全世界を見張る主の目でもある。(黙示録5:6)
また燭台は、世を主の光で照らす「教会」でもある。
『そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。・・・あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。』(黙示録1:12-20)
幕屋の内側は、外界とは幕によって隔てられ、世からは区別された領域である。
現代を生きる私達も、イエスの血によってはばかる事なくキリストの肉体という幕の内に入る事が出来、私達はその幕の中で区別され、まことのパンの養いを受け、主のともしびの光にいつも照らされて、主のつとめを為すのである。
『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19)