メッセージ - 主の大庭に入る時は(出エジプト記27:1-21)
礼拝説教メッセージ音声:主の大庭に入る時は(出エジプト記27:1-21):右クリックで保存
幕屋の外門から庭に入る時、最初に目にするのが、祭壇である。
『あなたはまたアカシヤ材で祭壇を造らなければならない。長さ五キュビト、幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである。その四すみの上にその一部としてそれの角を造り、青銅で祭壇をおおわなければならない。また灰を取るつぼ、十能、鉢、肉叉、火皿を造り、その器はみな青銅で造らなければならない。』(出エジプト記27:1-3)
人が幕屋に来て真っ先にすべきは「捧げる事」であり、捧げ物なしに主の大庭に入ってはならない。(申命記16:16、詩篇96:8)
捧げ物には色々な種類があり、ある時は感謝のいけにえを、ある時は動物に自分の罪を移し、自分の身代わりとして動物を焼き尽くす事もあり、ある時は和解を喜びつつ焼いた肉を共に食べる事もある。(レビ記)
この祭壇はアカシヤ材の上に青銅が被されており、祭壇で使う諸々の道具も、皆、青銅で出来ている。
青銅はさばきを意味するが、礼拝とは、まず自分自身の罪をさばき、自分自身を捧げる所からである。
この祭壇では、人の罪の身代わりとして動物が捧げられたが、私達には、私達の身代わりとなって下さったキリストがおり、キリストの故に私達も大胆に主の御前に出る事が出来るのである。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:18)
ゆえに、イエス・キリスト無しに神の御前に行く事は、身代わりの犠牲無しに祭壇へ行く事であり、そうするならもはや自分自身が裁かれるより他に無い。
『あなたはまた幕屋の庭を造り、両側では庭のために長さ百キュビトの亜麻の撚糸のあげばりを設け、その一方に当てなければならない。その柱は二十、その柱の二十の座は青銅にし、その柱の鉤と桁とは銀にしなければならない。また同じく北側のために、長さ百キュビトのあげばりを設けなければならない。その柱は二十、その柱の二十の座は青銅にし、その柱の鉤と桁とは銀にしなければならない。』(出エジプト記27:9-11)
幕屋の庭は、亜麻の撚り糸で織った幕で外界と仕切られている。
それは5キュビト間隔で柱によって支えられ、柱は青銅の台座の上に立てられており、銀の留め金によってつなぎ合わされている。
つまり、幕の内側と外界とは亜麻の撚り糸で織った幕によって分離されており、それは「さばきの青銅」の上に支えられ、「贖いの銀」によってつなぎ合わされているわけである。
私達も「十字架」という「さばき」によって世から分離されている。
「十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)
十字架のこちら側にいる私達キリスト者に対し、世は何もする事が出来ず、私達もまた、十字架のあちら側にいる世に対しては別様の者である、と理解すべきである。
『庭の長さは百キュビト、その幅は五十キュビト、その高さは五キュビトで、亜麻の撚糸の布を掛けめぐらし、その座を青銅にしなければならない。すべて幕屋に用いるもろもろの器、およびそのすべての釘、また庭のすべての釘は青銅で造らなければならない。』(出エジプト記27:18-19)
以上のように、庭の長さは44.5m、幅は22.25m。
内側と外側を区切る幕の高さは2.23mであるから、普通の身長の人は、外側から庭の中を見る事はできない。
ただ4m超のじゅごんの皮で覆われた聖所の建物が、亜麻の幕の上からとび出ているのが見えるような感じである。
この外庭の門にも、色々な色で刺繍が施されている。
「庭の門のために青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、色とりどりに織った長さ二十キュビトのとばりを設けなければならない。その柱は四つ、その座も四つ。」(出エジプト記27:16)
つまり、この庭の門に入ろうとする時、天の色である青・王の色である紫・血潮の色である緋色・清めの色である白の刺繍が為された幕を通ってでなくては入れず、出入りする際は、天を、王を、血潮を、清めを意識するようになっている。
「あなたはまたイスラエルの人々に命じて、オリブをつぶして採った純粋の油を、ともし火のために持ってこさせ、絶えずともし火をともさなければならない。アロンとその子たちとは、会見の幕屋の中のあかしの箱の前にある垂幕の外で、夕から朝まで主の前に、そのともし火を整えなければならない。これはイスラエルの人々の守るべき世々変らざる定めでなければならない。」(出エジプト記27:20-21)
これは、聖所に置かれる「燭台」を灯す油についての指示であり、主の御前で絶える事なくともしびを灯しておくように、永遠の定めとして命じられている。
私達もまた、この暗闇の世界を灯す世の光として、聖霊の油を絶やす事なく、いつも主の御前にともしびを灯しておくべきであり、また、賢い乙女たち(マタイ25章)のように、いつ主が迎えに来られても良いように、油の用意をしておくべきである。