メッセージ - 悪しき者のたくらみ(エステル3:7-15)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
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【概要】
本日私たちはエステル記3章7節〜15節を通して、権力者の軽率な判断が神の御計らいと人々の生死にどれほど大きな影響を及ぼすかを学び、自らの体と心の「実印」をどこに委ねるかという重大な決断について考えます。
【聖書箇所】
・エステル記3章7節〜15節
※「もしも王様よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀1万タラントを計って渡します。そしてそれを王の金庫に納めさせましょう。」(エステル記3章)
・ローマ人への手紙8章12節〜13節
※「ですから、兄弟たち、私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ人への手紙8章12〜13節)
【戒めの言葉】
・権力や外部の誘惑に無批判に依存してはならない。
・自分の体、心、そして実生活において、誰にその「実印」を渡すのかを慎重に判断する必要があります。
【励ましの言葉】
・御霊に委ねて生きるなら、必ず神の命と平安が備わります。
・日々の小さな選択が、未来に大きな実を結ぶことを信じ、御霊の導きに心を寄せましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
・過去に自らの判断で誤った道を選んだと感じる時、神に立ち返り、心からの懺悔と改心を行いましょう。
・神はいつでも悔い改める心を持つ者に慈しみと新生のチャンスを与えてくださいます。
【***詳細***】
今日、私たちはエステル記3章7節〜15節に記された、アハシュエロス王の時代における重大な出来事に目を向けます。エステル記では、権力者ハマンが自らの恨みと偏見から、特にモルデガイという一人のユダヤ人に対して憤りを募らせ、さらにその憤りをユダヤ民族全体へと向けるため、アハシュエロス王に進言しました。その進言の中で、彼はこう申し上げます。
「もしも王様よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀1万タラントを計って渡します。そしてそれを王の金庫に納めさせましょう。」
この御言葉は、ただ単に個人の復讐心から出たものではなく、権力の座にある者が、国や民族の運命を左右する重大な判断を下す際に、どれほど軽率であってはならないかを示しています。アハシュエロス王は、ハマンの計らいに流され、王の実印―つまり、決定的な権威の象徴―を手渡してしまいました。この結果、既に遠い国々にまでその命令が回り、ユダヤ民族に対する根絶的な法令が発布されるという、悲劇的な事態を招いたのです。
私たちはこのエピソードから、外部の権力や誘惑がもたらす危険性、及びその影響力に対して、常に警戒を怠ってはならないという戒めを受け取ることができます。決して、世の権力者の一言で私たちの運命が左右されるべきではありません。そして、私たち一人一人が持つ「実印」は、私たち自身の体や心、生活のすべてを意味しているのです。誰にその大切な実印を託すか、またどのような思いに委ねるかという選択は、私たちの未来にとって極めて重大な問題です。
このメッセージから私は、現代の私たちにとっても、心の中にある感情や意思、さらには日常の小さな決断が、後に大きな実を結ぶことを思い起こさせられます。例えば、日々の中で感じる怒りや憎しみ、または反抗心が、いつのまにか私たち自身の破滅に向かうものであってはならないのです。悪魔の策略は、私たちが肉的な欲望に従う瞬間に静かに忍び寄ります。そして、その結果、私たちは神の恵みや命の祝福を遠ざけ、破滅への道を歩むことになってしまいます。
一方で、聖書はローマ人への手紙8章12〜13節において、私たちに光を示してくださいます。
「ですから、兄弟たち、私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
この御言葉は、私たちが日々の生活の中で、肉に支配される生き方を捨て、御霊に導かれる選択をするよう強く促しています。御霊に従う生き方は、神の愛と平安、そして永遠の命へとつながります。私たちは自らの意思で、心の中の悪い感情や肉的欲望を「殺し」、その代わりに神の御霊がもたらす愛と喜びに満たされる生を歩むべきです。
また、エステル記の物語は、どれほど巧妙にして、権力者が自分の都合の良いように事実を操作し、ユダヤ民族という選ばれた民を狙ったかを描いています。ハマンはあえて「一つの民族」という表現を用い、その正体を曖昧にしながらも、最終的には全民族に対する虐殺令を発布させました。その冷酷な計略は、私たちにとっても重大な教訓となります。権力や物事を自分勝手の都合で動かす時、どんなに人々の命が危機にさらされようとも、その判断は正義を欠き、神の御心には決してかなわないということです。
私自身、この箇所から深く感じるのは、「実印」の意味です。実印とはただの印鑑ではなく、私たち一人一人の信仰、価値観、そして日々の選択そのものを象徴しています。たとえば、私たちが車を運転する際、その操作ひとつひとつが善にも悪にも変わるという比喩に似ています。日常の中で誰かに対して怒りを抱いたり、無意識のうちに破壊的な行動に出たりすることは、すなわち自らの「実印」を肉的な欲望に託してしまっていることです。そして、それがいずれ自らや周囲の人々に取り返しのつかない結果をもたらす可能性があるのです。
しかし、私たちは希望を見失ってはなりません。神は常に、御霊による新しい生の道を示してくださっています。たとえ過去に誤った判断をしてしまったとしても、私たちは悔い改め、祈り、断食を通して神に立ち返ることができます。旧約のイスラエル民族が大危機の中で一致団結し、祈りと断食によって救いを求めたように、現代に生きる私たちも、日々の選択の中で神に心を委ね、御霊の導きを受け入れることが重要です。
さらに、私たちがこのエステル記の物語から学ぶべき大切な点は、権力者の軽率な「実印の委譲」に対して、自分自身の大切な体や心、未来を誰に委ねるかという問いかけです。アハシュエロス王は、ハマンに実印を渡したことで、後悔の及ばぬ惨事を招いてしまいましたが、私たちはそのような過ちを回避するために、日々しっかりと自分自身の判断を育て、神の御心に照らして生きる必要があります。
私たちが日常の中でどのような選択をするかによって、神の御恵みが与えられるか、あるいは破滅へと導かれるかが決まってきます。例えば、些細な怒りの感情や恨みを放置することは、やがて大きな悲劇へと発展するかもしれません。一方、御霊の導きに従い、謙虚に神の意志を求め、互いに愛し合う心を持つならば、私たちは神の相続人として、豊かな祝福と永遠の命を受けることができるのです。
改めて、ローマ人への手紙8章12〜13節の御言葉に立ち返りましょう。
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
この御言葉は、私たちが肉の誘惑に流されず、常に御霊に導かれる選択をするべきであることを、力強く示しています。私たちの内に宿る思い、感情、そして意思が、神の御霊に委ねられるとき、私たちは真に神の子どもとして、新たな生命と希望に満たされるのです。たとえ今、どれほど混乱や誘惑、そして周囲の不正が目まぐるしく変わろうとも、神は変わることのない御約束と共に、私たちに平和と救済をお与えくださると信じます。
最後に、この教えを心に留め、日々の生活の中で「実印」をどこに委ねるか、どのように自らの意思や感情を扱うかを慎重に見極める決意を新たにしましょう。たとえ私たちが一度誤った判断をしてしまったとしても、悔い改めと祈りをもって、再び神の御手に委ねることができるのです。今この時、私たちは神の導きを仰ぎ、御霊の光の中で新たな生を歩む決断をするべき時なのです。
【結論】
私たちは、権力者の軽率な判断によって多くの人命が危機にさらされたエステル記の教訓を胸に、日々自らの体と心の「実印」を神に委ね、御霊による生き方を選ぶべきです。人間の弱さに流されず、真の神の子どもとして、神の恵み豊かな相続人となるよう、悔い改め、祈り、そして御霊に従う決意を新たにしましょう。イエス様の御名によって、この真実のメッセージが私たち一人ひとりの生命に確かな希望と平安をもたらしますように。