メッセージ - 特別な注ぎの油(出エジプト記30:22-38)
礼拝説教メッセージ音声:特別な注ぎの油(出エジプト記30:22-38):右クリックで保存
幕屋の祭具は、用いられる前に特別な油が注がれる。その注ぎ油の調合は、次の通り。
『あなたはまた最も良い香料を取りなさい。すなわち液体の没薬五百シケル、香ばしい肉桂をその半ば、すなわち二百五十シケル、におい菖蒲二百五十シケル、桂枝五百シケルを聖所のシケルで取り、また、オリブの油一ヒンを取りなさい。あなたはこれを聖なる注ぎ油、すなわち香油を造るわざにしたがい、まぜ合わせて、におい油に造らなければならない。これは聖なる注ぎ油である。』(出エジプト記30:23-25)
これは全ての祭具に注がれる。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台とに。
これらに油が注がれるなら、それらは聖別され、主に対して有用なものとなり、それらに触れるものも、全て聖なるものとなる。(29節)
この油は、祭司や王など特別な任職をする際にも注がれる。
「キリスト」とは元々「油注がれた者」という意味であり、イエス・キリストこそ唯一の王、完全な贖いを成し遂げた大祭司である。
私達キリスト者は、キリストのからだの各部分、各器官である。
王であり大祭司であるキリストにつながる私達も、キリストから流れてくる聖霊の油にあずかる事が出来る。
幕屋の祭具には色々な種類があり、それら全てに同じ油が注がれるように、キリストの体の各器官である私達も、かしらなるキリストの頭に注がれた尊い油が私達に流れ滴り来るため、皆が同じキリストの香りがするのだ。
『見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。』(詩篇133篇)
キリストに留まり、キリストから流れ滴って来る油は、尊く、麗しく、そこにはとこしえの命の祝福がある。
キリストに繋がっていなければ、油は滴って来ないし、主に対して有用な実を結ぶ事も出来ない。しかし、キリストに繋がっているなら、豊かな実を結ぶ事ができる。(ヨハネ15:4-5)
この油は特別なものであって、勝手に作ったり、神から任命されてもいない者に、注いだりしてはならない。
『これはあなたがたの代々にわたる、わたしの聖なる注ぎ油であって、常の人の身にこれを注いではならない。またこの割合をもって、これと等しいものを造ってはならない。これは聖なるものであるから、あなたがたにとっても聖なる物でなければならない。すべてこれと等しい物を造る者、あるいはこれを祭司以外の人につける者は、民のうちから断たれるであろう。』(出エジプト記30:31-33)
神から任命されてもいないのに、自らを「油注がれた者」と自称し、純粋であるはずの神の言葉に混ぜ物をして売り物にするような者、御言葉を軽んじても良いような事を教える者はいるが、私達はそのような者に気をつけなくてはならない。
『主はまた、モーセに言われた、「あなたは香料、すなわち蘇合香、シケレテ香、楓子香、純粋の乳香の香料を取りなさい。おのおの同じ量でなければならない。あなたはこれをもって香、すなわち香料をつくるわざにしたがって薫香を造り、塩を加え、純にして聖なる物としなさい。また、その幾ぶんを細かに砕き、わたしがあなたと会う会見の幕屋にある、あかしの箱の前にこれを供えなければならない。これはあなたがたに最も聖なるものである。』(出エジプト記30:34-36)
聖所で御前に備える香りには、さらに特別なものがあり、それは至聖所のすぐ手前の幕の所に供えられる香りで、香料の樹脂を粉々に砕き、主の御前に供える。
主が喜ばれるのは、砕かれた魂、悔いた心であり、砕かれた心から立ち上る祈りの香りは、主に喜ばれる。(詩篇51:16-17、マルコ14:3)
私達は、かしらなるキリストにしっかり留まり、キリストに注がれた油が、からだである私達にも伝わって来て、キリストの香りをいたる所で放つべき者達である。
『神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。』(2コリント2:14-17)