メッセージ - 幕屋建設指示の終わりに(出エジプト記31:1-18)
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いよいよ幕屋建設の命令の最後の指示である。
『「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう。』(出エジプト記31:2-6)
幕屋に必要な全ての設備品を造るために、要求される技術は、非常に多岐に渡る。
大工的なものもあれば宝石職人的な技術も要求され、服飾的なものもあれば、アロマの調合まで必要である。
これら全てを主の聖なる用に足りるレベルにまで造り上げるには、主の霊なくては到底出来るものではない。
神が幕屋について指示されて来た事は緻密で膨大であり、果たしてその通り出来るかという心配が、もしかしたらモーセにあったかもしれない。
しかし神は、出来ない要求をしていっちゃもんをつけるようなお方ではない。
神が「せよ」と言われるからには、それが出来るよう、必要な資材も、神の霊で満たされた知恵と力を持つ働き人をも、ちゃんと備えて下さる。
主の霊が与えられた技術者は、「これこれの物をつくりなさい」と言われた時、頭の中ですぐにイメージが与えられ、御心の通りに造り上げるのだ。
それは、現代の教会においても、そうである。
私達の教会が行くべき道が示された先には、現行の教会員や資力では到底出来ないような事を示される時があるかもしれない。
しかし、その示しが神から来たものであるからには、神がちゃんとそれが出来る御霊の知恵と力に満ちた人を用意し、必要な財力も備えて下さるのだ。
神の国の奉仕は、自分が活躍したいからなるものではないし、社会的落伍者が逃避的な目的でキリスト教界の奉仕者になるものでもない。
幕屋建設の奉仕者が、神から名指しで任命されたように、神の国の奉仕者は、神によって「任命」されてなるものである。
神が任命して下さるなら、どんな事でも可能であり、実績が必ず後を追い、人々からも認めるものである。
『主はまたモーセに言われた、「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。』(出エジプト記31:12-13)
幕屋建設の指示の最後は、なぜか再び安息日尊守の命令で締めくくられている。
これから具体的な作業に入るに当たって、全ての奉仕で決して忘れてはならない重要事項が「安息」であるようだ。
神の国の奉仕者が休まず働いて疲れ果ててしまうのは御心ではない。
必ず休みが必要であり、そして休みの時は、しっかり神の創造のみわざを覚えつつ心も体も休めるべきである。
安息日の主は、キリストである。
全ての種類の奉仕にあたり、決して忘れてはならない重要事項は、イエス・キリストを信じる信仰であり、この御方を脇においた自分流の奉仕は、無効である。(ヘブル4:1-3)
信じた者は安息に入り(ヘブル4:1-3)、安息に入った者は自分のわざを終えて休む。
『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:9-10)
『主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。』(出エジプト記31:18)
こうして、25章以降から詳細に指示されて来た幕屋建設の命令は終わり、モーセは律法の石板を神から頂いたが、残念ながら、この板は次章で粉々に砕かれてしまう。
次章以降、民の堕落とモーセの執り成し、神の憐れみを見て行きたい。