メッセージ - 仕事が多いと夢を見る(伝道者の書5:1-7)
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【概要】
教会において最も大切なのは礼拝と御言葉に聞き従うことです。多くの仕事や言葉で神に仕えようとするよりも、まず御言葉に耳を傾け、それに従順することこそが、神に喜ばれる最上のいけにえとなります。
【聖書箇所】
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伝道者の書5:1-7
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ルカ10:38-42
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ヨハネ12:3-8
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第一サムエル15:22-23
【戒めの言葉】
神の御前では軽々しく言葉を出してはなりません。仕事が多くなると夢を見、言葉が多くなると愚かな者の声となります。愚かないけにえを捧げるのではなく、聞く準備をすべきです。
【勧めの言葉】
マリアのようにイエス様の足元に座って御言葉に聞き入ることを選びましょう。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさります。御言葉にじっくり聞き従い、最上のいけにえを主に捧げる者となりましょう。
【***詳細***】
今日の箇所は、伝道者の書5章1節から7節までです。
「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。神の前では軽々しく心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だからことばを少なくせよ。仕事が多いと夢を見る。言葉が多いと、愚かな者の声となる。神に誓願を立てる時には、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。あなたの口があなたに罪を犯させないようにせよ。使者の前で、あれは過失だと言ってはならない。神があなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手の業を滅ぼしても良いだろうか。夢が多くなると、虚しい言葉も多くなる。ただ神を恐れよ。」(伝道者の書5:1-7)
皆さんは教会においては何が一番大事だと思いますか。教会に来た時に最も守るべきは何でしょうね。礼拝、御言葉と聖餐。それも礼拝の中のうちですね。そうです。礼拝です。御言葉です。私たちの聖餐は交わりですね。
ですから、この礼拝、これをですね、まず第一に据えるべきだということ。これはもう皆さん周知のことだと思うんですけども、ところがこの周知のことがですね、なかなか忘れがちになってしまうことがあるんですよ。
ここでは「仕事が多いと夢を見る」って言葉がありますけれども、仕事、やれこれやとですね、考え出したりしたがるものです。礼拝に花を添えるために、あ、じゃあ首飾りを買ってきて、とりあえず100円ショップからあの飾り、この飾りを買ってきて、で、それで、こうすればもう礼拝喜ばれると思って。で、実は買ってきたものの、いざここに置いてみたらいらないものがあった。まあ、そういうこともありますし、またですね、礼拝のために、みんなが食事の準備をしてるから、じゃあ私も一緒に加わって働こうって言って、主日の前の日に夜中の3時、4時とそれで作ることに精一杯で、いざ礼拝に臨んでしまったら寝てしまった。御言葉も聖餐も頭の中にすっかり入ってこない。
結構ですね、礼拝が中心と言いながら、その周りの周辺の物事にですね、仕事を多くして、それで失敗して、礼拝の御言葉が全然残っていなかった。こういう罠がよくあるんですね。私たちはまず、自分自身を慎んで、そして何をすることが神様に喜ばれるのかということを考えなくてはいけません。
なぜなら教会という場所、神様が中心ですね。でも、神様が中心だと思わず、人に喜ばれること、人が「あ、誰々さんはとても奉仕熱心な人だね」とか「働き者ね」とかそういうことを言われたいがために何か仕事を多くして、仕事をあれやこれやと自動的にパッパッパって考えちゃうようなことも、それもまたありますけれども、しかし、そのように仕事が多いと夢を見て、そして夢が多くなると虚しいことも多くなるんです。
この5章1節、こちらの方は、キング・ジェームズ・バージョンの方では、「愚かないけにえを捧げる準備をするよりも、むしろ聞く準備をせよ。悪とされないために」という風に訳すことができます。もう一度言いますと、「愚かないけにえを捧げる準備をするよりも、むしろ聞く準備をせよ。悪と定められないために」。
私たちはですね、何かと急いで、あれやこれやとパッパッパって考えついちゃって、それで愚かないけにえを捧げることになります。礼拝の前の日に忙しくなって、それで礼拝当日の御言葉中に居眠りをしてしまう。愚かないけにえを捧げてますね、その場合は。ですから、そのような愚かないけにえをささげるよりも、聞く準備をしなさい。それは悪とされないためです。
また2節。「神の前では、軽々しく心をあせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」これはもう箴言の学びでよく皆さん聞いておりますね。言葉です、言葉。言葉数が多くなると愚か者の言葉になるよっていうことをよく私たちは見ております。
また3節。「仕事が多いと夢を見る。言葉が多いと愚かな者の声となる。」何かとですね、仕事、本当にシンプルなことなんですよ。本当は物事は。ある仕事をすることで、例えば「お花に水をあげて」と河合さんが出ている間、私はお願いされたんですけれども、どのようにして水をあげるのかな、水は浄水器の水がいいかな、水道の水がいいかな、お花にあげるときは、どういう言葉を言えばいいかな、愛してるよっていう言葉がいいかな、それとも綺麗だよって言葉がいいかな。
確かにそんな風にはしてないですからね。正しく祝福を祈っています。とにかく、ある奉仕をするにあたって、あれこれとですね、仕事を多くし、夢を多くしてしまうと、愚かな奉仕になってしまうんですね。お花は本当に命そのまま生きています。偽りの愛してるよ。偽りの綺麗だね。そういった言葉はですね、花は受け取りません。本当に、御言葉の祝福を本当にダイレクトに受け取るんですね。奉仕はすべてそういうものです。奉仕は神様にお捧げするものですから、一切のそういう口先だけ外見的な飾り、そういったものは通用しないんです。
神様の御前に出るときは心を焦ってはなりません。むしろシンプルにするべきなんですね。「仕事が多いと夢を見る」で3節に書いてありますけども、7節の方では「夢が多くなると虚しい言葉も多くなる」。これは仕事においてもそうです。この3節の仕事、英語の訳ではビジネス。ビジネスが多くなると夢を見るんですけども、とにかくそういうやることをですね、パパパって思いついて、それでこれをやって、あれがあって、それから、それを斜め右下に持っていってとか、そういうふうにあらかじめそういうふうに組み立ててしまうと、そのことばっかりが頭の中にあって、人と話すときにどうもいまいち話がかみ合わなくなっちゃうということがよくあるんです。なんでこの人、斜め右下なのかな、なんでそのことばっかり、単純に下に持っていけばいいのに、なんで左行って、下行って、右行って、それから上に行かなきゃいけないのかな。
そういうですね、仕事が多い人は何かとそういう無駄が多い、また虚しい言葉が多い、そして虚しい言葉が多くなると愚かなものになってしまうんです。
この非常に良い例がですね、マルタとマリアですね。ちょっと開いてみましょうか。その中で最もいい例はマリアです。マリアはイエス様の言葉に耳をじっと傾けているだけでした。
ルカの福音書の10章ですね。ルカの福音書の10章の38節から42節です。
「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女はマリヤという妹がいたが、主の足元に座ってみことばに聞き入っていた。ところが、マルタはいろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ、妹が、私だけにおもてなしをさせているのを何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください。』主は答えて言われた。『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して気を遣っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。一つだけです。マリアはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」(ルカ10:38-42)
アーメン。マルタは仕事が多い人ですね。イエス様が来た。じゃあ、イエス様に対して最も最大のおもてなしは何かな、あれやこれやと給仕をして食事を整えたり、また、しもべたちに言いつけをしたり、そういったことをして、それがイエス様に対する最善だと思いました。
マリアはイエス様のお言葉を聞くこと、それを選びました。とにかくこうした給仕の仕事すら別に後でもできる。ただ、イエス様のお言葉、それは今しか聞くことができない。だから、マリアはイエス様の足元に座ってみ言葉に聞いていました。
しかし、ところがマルタはそのマリアを見つめるんですね。イエス様ではなくマリアを見て、それでだんだんイライライライライラしてくるんです。イエス様がみ言葉を語っている最中なんですよ。でもマルタはイエス様を見ず、イエス様の言葉に耳を傾けず、マリアを見てイライライライライラしているんですね。
皆さんも礼拝の中では気をつけてください。礼拝の中ではイエス様の御言葉に耳を傾けるべきなんですけども、でも、あのことを考えてイライラ、あの兄弟姉妹を考えてイライラ、あの仕事、この仕事どうしようって考えて、そうしたいろいろなことを心配して気を遣うこと、イエス様は、そこを指摘をしましたね。
「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して気を遣っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」イエス様が語っておられる時、その時はイエス様の御言葉を聞くこと。マリアは一番良いものを選んだんですね。だからマリアは、他のどんな弟子たちも気づかなかったことを気づきます。また、マリアは他の弟子たちが受けられなかった栄誉を受けることになります。
ヨハネの福音書の12章の方を開きたいと思います。ヨハネの福音書12章の3節から8節まで。
「マリアは非常に高価な純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。ところが、弟子のひとりでイエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。『なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。』しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって金入れを預かっていたが、その中に納められたものをいつも盗んでいたからである。イエスは言われた。『そのままにしておきなさい。マリアはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつも一緒にいるが、わたしとはいつも一緒にいるわけではないからです。』」(ヨハネ12:3-8)
イエス様はこの時、「あなたがたは貧しい人々とはいつも一緒にいる。しかし、わたしとはいつも一緒にいるわけではない」とおっしゃいました。これはイエス様がもうじき十字架につけられるからですけれども、しかし、私たちもですね、イエス様の聞くべき言葉をその時聞けるかどうかということは、それは皆さん自身にかかっているんですね。
イエス様が「私はもうすぐ十字架につけられる」という言葉、それはもうある一定期間しか賞味期限のない内容の言葉です。イエス様の言葉は「時」があります。皆さんに語られるべき時、そして、その時期を逃してしまうと、その言葉は皆さんにとって何もなくなってしまいます。マナには賞味期限があるように、イエス様の御言葉にもそれを聞くべき時、そしてそれを実行するべき時があるんです。
マリアは聞くべき時にしっかり聞いたから、実行するべき時にしっかりとこの葬りの準備という、誰もができなかったこの栄誉を預かることができました。このイエス様の言葉、ずっと足元に座って聞いていたからなんですね。
でも、ここに一人良くない事例がおりますね。イスカリオテ・ユダです。彼はそのマリアの行動、マリアの捧げ物をじっくりと見つめておりました。イエス様になす、弟子がなすことを、それを傍から見てじっと見つめる行為。マルタもそうでしたし、このイスカリオテ・ユダもそうですね。それは良くない行為です。イエス様ではなく、聖徒の何かをじっと見て、それを値積もりして、それをお金に換算して、私だったらこうすると批判したり、そういったことをすること。それはイエス様の敵がすること、イエス様を売り飛ばす類の人がするような行為ですね。
でもイエス様はユダに諭しました。「そのままにしておきなさい。あなたはいつも私と一緒にいるわけではないんだよ。私と一緒にいるべき時にしっかりと御言葉を聞いて、そしてしっかりとその礼拝のための整えをしておきなさい。」イエス様はそのように言うんです。
私たちは何かとですね、イエス様の奉仕をするとなると、あれやこれやと考えがちになってしまいます。あの奉仕、この奉仕、どこどこに行ったら、まず何をしようか、これをしようか、いろいろなことを考えるんですけれども、でも、主人公はイエス様であることを忘れないでください。そして、私たちがあれやこれやと思い煩って、仕事が多くなって、周りの人たちに愚かを振りまいて、周りの人たちさえもその仕事を忙しくさせるような、そういったことではなく、私たちはむしろ御言葉をしっかりと聞いて、マリアのように足元に座ってじっくり聞いて、そしてその通りに実行すること。それは実は非常にシンプルなことなんですね。
もう一人良くない事例がですね、サウル王です。第一サムエル記の15章22節と23節が非常に有名な言葉ですね。第一サムエルの15章の22と23。
「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえやその他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに背くことは占いの罪、従わないことは、偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王から退けた。』」(第一サムエル15:22-23)
聞き従うことは大事ですね。従わないことは偶像崇拝の罪、背くことは占いの罪と一緒だと書いてあります。このサウル王はですね、主の御声に聞き従ったと思い込んでいました。20節に「サウルはサムエルに答えた。『わたしは主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガクを連れてきて、アマレクを聖絶しました。しかし、民はギルガルであなたの神、主にいけにえを捧げるために、聖絶すべきものの最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ってきたのです。』」
サウルは主の御声に聞き従いましたと主張したのですが、しかし、主の御声は「そのすべてを聖絶せよ」です。この3節にあるとおり、「アマレクを打ち、そのすべての者を聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも、乳飲み子も、牛も、羊も、らくだも、ろばも、殺せ。」主の命令はこれだったのですけれども、しかし、サウルはそれを惜しんだんですね。で、民のせいにしました。
でも、サウル王はちょっと考えたんですね。聖絶するのはもったいない。よし、じゃあこうしよう。主にこの最上のものを捧げるという名目をつければ、そうすればサムエルさんは納得するだろう。主のことを全く考えずに人のことを考えたんですね。そしたら、彼は王位から退けられる羽目になってしまいました。
皆さん自身もですね、主の御言葉があるんですけど、しかしその御言葉に何か、ここはちょっと厳しすぎるから、これこれこういう解釈を取ろう。そうしたら人の目にもいいし、誰々さんも納得してくれるだろう。そういう風に考えてですね、主の命令に滅ぼすべきものを取っておいたりするんです。私たちの内には。
人のうちには何一つ良いものは本来ないんです。私のあの奉仕の業、それをすればみんな喜んでくれるだろう。私のきれいな歌声を捧げれば賛美が盛り上がるだろう。そういう風にですね、主を、主の御声に聞き従わずに、人間的な何かを追加して、何か主に捧げ尽くすべきものに、何かを加えてしまって、そうして主の御声に聞き従わないで、その捧げ物を台無しにしてしまうというようなこともあります。いやむしろ、このサウル王は滅ぼすべきものを取っておいて、それを主に捧げようとしたんですね。主は喜ばれないはずなんです。
私たちのうちも、肉的な何か、それはすべて滅ぼし尽くすべきものなんです。主の十字架の御前で、そして主から、十字架の復活の後のイエス様のその新しいいのちに沿ったもの、それこそ私たちは捧げるべきものです。主が最も喜ばれるいけにえ、それは聞き従うことですね。
主のみことばに「嫌だ」とか、「だって」とか、それを混ぜ込んで、それでこれこれこういうふうにして捧げました。それは主の喜ばれないいけにえです。主は主の御声に聞き従うことほどに全焼のいけにえやその他のいけにえを喜ばれません。聞き従うことこそいけにえに勝るんです。そして、主の御前に出るときは、言葉数を多くするべきではありません。仕事をあれやこれやと考えつくべきではありません。
サウルは仕事を考えつきましたね。彼は12節を見ますと、自分のために記念碑を建てて、それで13節でサムエルと会うなり、「主の祝福がありますように。私は主の言葉を守りました」。もっとも守っていないからこんな取り繕いの言葉が真っ先に挨拶ことばとして出てくるんですね。
私たちは主の御前には心まっすぐであるべきであり、また正しく主の御声に聞き従うべきなんです。どうか皆さんは主の御声にじっくり聞き従うマリアの例に倣ってください。そして、聖徒、他の聖徒を見つめたりせず、皆さん自身のその務め、それはイエス・キリストが中心ですね。ですから、人の目に何か映るものではなく、イエス様のためになすということをまず第一としてください。そして、主の御声に聞き従ってこそ最上のいけにえを捧げることができます。どうかそのように、イエス様に対して最上のいけにえを捧げる皆さんでありますように。
最上のいけにえを捧げるためのコツはまず何でしたか。従順することです。そうです。御言葉、聞き従うことです。耳をまず使って、そしてその通り従順して、そしてその通りを行うこと。どうかそんな感じで最上のいけにえを主に捧げる皆さんでありますように。
【結論】
神に喜ばれる礼拝の秘訣は、多くの仕事や言葉ではなく、マリアのようにイエス様の足元に座って御言葉に聞き従うことです。聞き従うことはいけにえにまさり、従順こそが主への最上の捧げものとなります。私たちは愚かないけにえではなく、御言葉に耳を傾け、それに従順することで、永遠の記念となる礼拝を捧げることができるのです。





