メッセージ - 神の国の奉仕者(出エジプト記35:30-36:7)
礼拝説教メッセージ音声:神の国の奉仕者(出エジプト記35:30-36:7):右クリックで保存
『モーセはイスラエルの人々に言った、「見よ、主はユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、彼に神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせ、また人を教えうる力を、彼の心に授けられた。彼とダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブとが、それである。』(出エジプト記35:30-34)
神はこの二人に、匠の技と知恵、人を教える力とを授けられた。
それは、神を礼拝する聖なる建物「幕屋」を建て上げ、礼拝に必要な祭具を造るためである。
現代、神が一人ひとりに異なった賜物(神から与えられた特別な才能)を与えられる理由は、聖なる神の建物、すなわち、教会というキリストのからだを建て上げるためである。
『わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。』(2コリント12:3-5)
それ故、ことさら人をある分野に長じさせ賜物を与えられるのは、その人を活躍させたり有名にさせたり気持よくさせるためではなく、キリストのからだを建て上げるためである。
例えば、世のミュージシャンは、いかに自分に注目が集めるか、いかにステージで目立つ所に長くいられるか、いかに自分が活躍して有名になるかを目指すもので、ステージの中央から外されたり、他の人が活躍したりし出すと、傷ついたり、怒ったりする。それは、自分の栄光のために行なっているからだ。
しかし、神を褒め讃える賛美の奉仕者は、そうであってはならない。なぜなら、賛美の奉仕は本来、主イエスの栄光のために行うものであるからだ。
自分がステージの中央にいようがいまいが関係無く、ただ主の御名が高められる事を喜ぶものであり、むしろ、主よりも自分に注目が集まったり、主の御名よりも自分の名が高められたりしたら、嫌がるのが、本来の神の国の奉仕者だからだ。(使徒14:8-15、黙示録22:9)
神の国の奉仕者がおごり高ぶり、神に栄光を捧げる事をやめて自分に栄光を捧げるようであれば、そこから引きずり降ろされ、泣いて歯ぎしりする事になる。
サタンは元々、神を褒め讃える音楽奉仕者だったが、自分が高ぶろうとし、ステージの中央に陣取って栄光を受けようとしたために、投げ落とされてしまった。(エゼキエル28:12-19、イザヤ14:12-15)
人々の注目を集めるタイプの奉仕者はことさら、サタンの道に陥らぬよう気をつけるべきである。
イスラエルの民は捧げたいという思いが突き動かされ、神の国の用に有り余るほどの捧げ物を喜んで持ってきたため、モーセをして「もう持って来なくても良い」と言わしめるほどだった。(出エジプト記36:3-7)
神の国の奉仕者は、「自分のため」という概念が無い。自分が何かを得る事ではなく、キリストのからだ全体が栄える事を喜びとするからであり、そして主は、そのように心から進んで捧げる人には、さらに豊かな恵みを与え、満ち足らせ、さらに全ての良きわざにおいて、富ませて下さるお方である。(2コリント9:8-9)
そうして捧げる事の喜びに味をしめた人は、ますます豊かにされ、ますます喜んで捧げるようになって行くのである。