メッセージ - 完璧なるキリストの復活(マタイ27:62-28:10)
完璧なるキリストの復活(マタイ27:62-28:10)
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本日はイースター、イエス様の復活を記念する日である。
イエス様はひとたび、十字架上で、完全に死なれた。ヨハネやマリヤの目の前で、兵士や百人隊長、その他多くの人達の目の前で、息を引き取り、槍で突かれても、血と水が流れ、全く動かなかった。
イエス様を十字架から降ろしたアリマタヤのヨセフとニコデモは、死後硬直して冷たくなりつつあるイエス様の体に、苦心して没薬とアロエとを共に亜麻布で巻きつけ、ヨセフが用意した墓へと葬り、番兵が封印した。
イエス様の死という「敗北」に、祭司長や律法学者達は勝ち誇ったが、イエス様は三日目に復活する、との言葉を思い出し、弟子たちが遺体を盗まぬよう手配さえしたが、その弟子達は、皆、イエス様がよみがえるなど、つゆ思っておらず、絶望し、恐れ、隠れた。それ程、イエス様は完璧に「死に尽くした」のである。
しかし、イエス様のあらゆる敵にとって「残念」な事に、イエス様は、完全に復活されたのだ。
封印は圧倒的な力で破られ、墓の入口を塞いていた大きな石は、脇に転がされ、墓を見張っていた番兵たちは、御使いを見て死人のようになり、女たちがイエス様の遺体に香油を塗ろうとして墓に行った時、墓の中にはイエス様の遺体は無く、ただ体を巻いていた布が巻かれたままに置き去りにされていた。
番兵達は祭司長たちに報告したが、祭司長たちは、なぜか、「そんなばかな事があるか」と一蹴する事も、失われた遺体を捜索する事も一切せず、番兵たちに金を掴ませ、偽りの情報を流させた。
しかし! 女たちはすぐにイエス様に出会い、「おはよう。」と声をかけられた。イエス様は弟子たちに現れ、信じられない様子の彼らに、よく見させ、触らせ、釘跡に指を入れさせ、彼らの面前で魚を召し上がった。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われ、迫害者サウロにも現れパウロへと造り変えた。
復活は、私達キリスト者にとって最重要事項であり、もし私達に復活が無いとしたら、キリストの復活も無かったはずで、宣教も、実質の無いものとなってしまう(1コリント15:12-19)。
マホメットや仏陀は死に、墓は聖地として奉り上げられているが、キリストの墓は無い。生きているからだ。
イエス様は実際よみがえられ、その、莫大なる復活の力を体験した人達は、実際に大勢いる。
彼らは元々、ユダヤ教のナザレ派という弱小集団で、漁師や取税人、遊女といった、社会的弱者から構成される、お金も知恵も力も、まとまりも無い、ただの要領の悪い小さな集団だったが、見事な統率と武力で世界を席巻した、あの、ローマ帝国を凌駕し、後には、帝国そのものがキリスト教国になってしまったのだ。
そしてイエスキリストを信じる人には、イエスの名によって病が癒され、問題は解決され、イエスを信じた家族や国はますます栄え、勝利し、イエスの名をおとしめる者達は、災いに満ちた終わり方をしている。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力である。
イエス様は今まさに生きておられ、その復活の命は、何者にも押し留められるものでは無い。イエスの敵は、協議と権力と金と偽りとで、いのちを押し潰そうとするかもしれないが、春に萌え出る草や花を、人が留められないように、復活のいのちの広がりは、サタンも人も、死も、もみ消そうとして消せるものではない。
『朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」』(1コリント15:54-55)
キリストはなぜ、復活の後、あの圧倒的な御力をもって公に見える形で現れず、信じる者たちに、ごく内密にしか現れないのだろうか。それは、神の御心により、信じる者達の宣教のことばの愚かさを通し、信じる者達を救おうと定められたからである。(1コリント1:21)
神は何ゆえか、この土の器に過ぎぬ私達を通して、全被造物の救いという宇宙的事業の一端を担わせられ、この救いの言葉、十字架の福音を全世界に宣べ伝える事を、私達に委ねられたのである。
そして、やがては天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物が「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」と言って、ほふられた小羊キリストに栄光を捧げるようになるのである。