メッセージ - 命じられたとおりに(出エジプト記39:32-43)
礼拝説教メッセージ音声:命じられたとおりに(出エジプト記39:32-43):右クリックで保存
『こうして会見の天幕なる幕屋の、もろもろの工事が終った。イスラエルの人々はすべて主がモーセに命じられたようにおこなった。』(出エジプト記39:32)
主から命じられていた奉仕を、イスラエルの民は全て守り行い、幕屋の工事はいよいよ終わる。
36章以降、主が山で「このように造りなさい」と命じられた事を、そのまま守り行った事がずっと記されて来たが、それはあたかも、前出した箇所のコピーペーストのような文章で、読み手としては「同じ事が書いてある」と、つまらなく思えたかもしれない。
しかしそこに、私達が学ぶべきとても重要な事柄がある。
それは、「主が命じられた事を、そのまま守り行う」事である。
「人々は、主が命じられた通りに全て行った」という表現は、39章では幾度も見られる。(1,5,7,21,26,29,31,32,42,43節)
主が命じられた事をそのまま守り行う・・・それは、自分で考え出して行動する事が好きな人には、つまらないかもしれない。
しかし、主から命じられた事を、コピーペーストかと思えるまでに正確に守り行う事は、主の御前に立派な行為であり、豊かに祝福を受けるコツである。
逆に言えば、主から命じられた事を自分で考え出した何かで上塗りしてしまう事は、呪いの元である。その典型的な事例が、1サムエル15章のサウル王の箇所である。
サウル王は、あらかじめ主から次のように命じられていた。
「今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」(1サムエル15:3)
しかし彼は、その通り行わず、主の怒りを買ってしまった。
『サウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。・・・「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」。サムエルは怒って、夜通し、主に呼ばわった。』(1サムエル15:9-11)
サウルとしては、主の命令を実行したつもりだったようだが、そうではなく、かえって主を怒らせていた。
私達も、主の命令どおりに実行した「つもり」になっていても、実は、主を怒らせている時があり、その時、表層意識には出なくとも、なんとなく主に対して「うしろめたさ」があるもので、わざわざ「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」とオーバーに言ってみたり(13節)、「いいわけ」という形になって表層に出てくるものである。(19-21節)
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル15:22-23)
サウル王が主の御声に聞き従わなかったのは、主から滅ぼすように命じられたものを「惜しみ」、そうする事を「好まなかった」からである。(同9節)
主の言葉を、自分の「好み」「好まざる」で、聞き従わない事。それは、引きずり降ろされてしまう元である。
主が私達に求められておられる事、それは、御言葉をより好みしたり、加えたり減らしたりせず、出エジプトの民のように、主から命じられたままを、違わず守り行う事なのだ。
『イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたように、そのすべての工事をした。モーセがそのすべての工事を見ると、彼らは主が命じられたとおりに、それをなしとげていたので、モーセは彼らを祝福した。』(出エジプト記39:42-43)
主の言葉を違わずに全て行った時、私達も祝福を得るのである。