メッセージ - レビ記概要(レビ記1:1)
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「主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた」(レビ記1:1)
レビ記はモーセ五書の第三の書、ヘブル語ではワイクラー、意味は「そして主(彼)は呼び寄せられた」という、このレビ記1章1節の言葉である。
レビはイスラエルの三番目の息子で、その子孫達が人情よりも御言葉に従順したため、神と人との間を取り持つ祭司としての職務が与えられた事は、出エジプト記で学んだ通りである。
ちなみにレビの名は「結びつける」という意味で、神と人とを結びつける祭司にふさわしい名である。
レビ記の内容が主から与えられたタイミングは、エジプトを出て第2年目の1月から2月までの間である。(出エジプト記40:1、民数記1:1)
その間、このレビ記に記されている主の戒めとさとしを、じっくりと主から教わったのだ。
そして、第2月の二十日に、雲があかしの幕屋を離れ、イスラエル人はその主からのゴーサインにより旅立ちを始めた。
私達は、身勝手に行動を始めるべきではなく、まず主の御言葉をじっくり聞いてから、主のゴーサインによって行動を起こすべきなのだ。
このレビ記には、律法の細則が示されており、種々の捧げ物や礼拝、祭りに関する規定や、何が清く何が汚れた事であるのかについて、また、何が義であり何が罪であるのか、何が聖であり何が俗であるのか等を、具体的なケースを用いて詳細に示している。
それらの内容から、主は何を喜ばれ、何を嫌われるのか、主はどのようなご性質であるのかを、私達は知ることが出来る。
レビ記1章から7章までは、神様に捧げるべき捧げ物について記されている。
それは現代の私達にも、捧げ物はどのように、どのような気持ちで捧げれば良いのかのガイドラインとなり、そしてまた、人類を贖うまことの犠牲となられたキリストのご性質を、詳細に知る事が出来る。
レビ記からは、キリストの贖いや、キリストの大祭司としての性質を見ることが出来、また、各種の祭りからも、キリストの誕生や生涯、十字架での死と復活、再臨の性質を知る事が出来る。(ヘブル9章)
旧約律法はもう終わった、異邦人である我々には関係ない、というような心持ちで読むと、レビ記ほどつまらない書は無いだろう。
しかし、レビ記に限らず、モーセ五書は、神がどのように世を造られ、神は人とどのように関わられ、何を好まれ、何を憎まれるのか、そうした神と人との関係の根幹的な事柄が記されているため、決しておろそかにはできない。
よく、「旧約聖書は自分とは関係ない」と思う人がいるが、その人は、以下の御言葉を熟考すべきである。
『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。』(1コリント10:1-12)
ここで明記されている通り、モーセ五書に記されている諸々の事は、世の終わりに臨んでいる私達への警告であり、訓戒としてしっかりと捉えるべきである。
悪をむさぼった彼らが荒野で屍を晒していったように、わたしたちも、悪をむさぼって中途脱退者にならぬように、また、偶像礼拝者となって兄弟姉妹から絶たれてしまわぬように、また、不品行をして倒されてしまう側とならぬように、また、つぶやいたりして「死の使」に滅ぼされぬよう、日々互いに励まし合い、そのような誘惑に陥って、荒野で屍として永遠に置いてけぼりになってしまった者に加わる事のないように気をつけるべきである。