メッセージ - どんな捧げものであっても(レビ記1:10-17)
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『もしその燔祭の供え物が群れの羊または、やぎであるならば、雄の全きものをささげなければならない。』(レビ記1:10)
前回は、燔祭すなわち全焼のいけにえが、牛の場合について見たが、捧げものは何も必ず牛でなくてはならないというわけではなく、捧げる人の状況に合わせ、羊、やぎ、あるいは山鳩、家鳩のひなでも良い事となっている。
この世において、人には貧富の差があり、牛を多く持てる人もいれば、貧しくて、やぎ一匹も持てない人もいる。
しかし、どんなに貧しい人であろうと、山鳩や家鳩のひなくらいは、手に入る。
主は、牛を捧げた人はひいきして、鳩のひなを捧げる人は蔑むような事は、なされない。
むしろ主は、人が捧げものをする時は、その人の心の成り立ちを、見ておられるのである。
『イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。』(ルカ21:1-4)
そして、捧げものがいかに肥えた牛や羊であったとしても、汚れた者による、間に合わせ的な捧げものは、忌み嫌われる。
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル 15:22-23)
主は何より、聞き従う耳と、従順な心をこそ、全ての捧げものに勝って、受け入れられるのである。
『彼は祭壇の北側で、主の前にこれをほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。彼はまたこれを節々に切り分かち、祭司はこれを頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。』(レビ記1:11-12)
いけにえの動物は、ほふられ、血を祭壇の周囲に流され、体は解体されるが、このいけにえはイエス・キリストをあらわしている。
『わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。』(詩篇22:14)
この詩篇の通り、イエス様は十字架上で、悪者どもに囲まれ、手と足を(直訳:獅子のように)刺し貫かれ、手足を引き裂かれ、わきを槍で貫かれた。
その、衣服はローマ兵達に分捕られ、分けられ、下着はくじにひかれた。
イエス様は御父の前に、完全ないけにえとして捧げられたのである。
これら、動物のいけにえは、主イエス・キリストの予表である。