メッセージ - 素祭 - 穀物の捧げもの(レビ記2:1-10)
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レビ記2章は、素祭、すなわち、穀物の捧げものについての規定が記されている。
『人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、これをアロンの子なる祭司たちのもとに携えて行かなければならない。』(レビ記2:1-2)
供え物として捧げられるものは「麦粉」であって、殻がついたままのものでも、砕かれる前の状態でもない。
殻を取り除かれ、粉々に砕かれた「麦粉」に、油を混ぜ、乳香を添える事によって、捧げ物として有効になる。
『祭司はその麦粉とその油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは主の火祭のいと聖なる物である。』(レビ記2:2-3)
捧げもの全般に言える事であるが、主に捧げられるいけにえは、キリストをあらわしており、そしてまた、主に捧げられる私達をも表している。
この、祭司が記念の分としてつかむ最初の一握りは、主に捧げられる香ばしいかおりであり、キリストも、私たちの先駆けとして、十字架上で香ばしいかおりとなって捧げられた。
それに続く私たちは、大祭司なるキリストの食物として、父なる神の御心を行い、その御業を成し遂げるのだ。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)
この麦粉に混ぜ合わされる油は「聖霊」を意味し、乳香は「キリストのかおり」を暗示する。
素祭として捧げられる小麦が粉々に砕かれたように、十字架上で捧げられるキリストも、主の御前に粉々に砕かれ、そして、油注がれた。
私達もまた、主の御前に捧げられる際には、人間的な知恵や力は、粉々に砕かれるべきである。
『あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)
素祭は、単に麦粉にそのまま油と乳香を混ぜた状態で捧げる方法の他に、かまどで焼いたり、平なべの上で焼いたり、なべで煮たり等、色々な方法で調理された状態で捧げる方法もある。
『あなたの供え物が、もし、平鍋で焼いた素祭であるならば、それは麦粉に油を混ぜて作った種入れぬものでなければならない。あなたはそれを細かく砕き、その上に油を注がなければならない。これは素祭である。』(レビ記2:5-6)
この、平鍋で焼いた素祭は、調理された後でも、さらに細かく砕かれ、さらに油が注がれる。
同じように私たちも、主にあって色々な方法で「料理」され、ある人は「料理」された後でも、さらに細かく砕かれ、さらに油注がれる、という事もある。
いずれの捧げられ方でも、共通している事は、麦粉は細かく砕かれており、油を混ぜられ、パン種は入っていない、という事である。。
私たち自身も、主に喜んで受け入れられる「捧げ物」となるためには、まず、主に敵対する「自我」は粉々に砕かれている必要があり、自分由来の人間的な力や知恵といった「パン種」は取り除かれている必要があり、そうであるなら、さらに主から聖霊の油が注がれ、ますます主に喜ばれる捧げ物となって行くことができるのだ。