メッセージ - 罪祭 - 罪のためのいけにえ(レビ記4:1-17)
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レビ記4章は、罪祭、すなわち、罪のためのいけにえについての規定が記されている。
1-3章のそれぞれのいけにえは、自分から進んで捧げる任意の捧げ物であったが、罪祭は、罪を犯した人が捧げなければならない義務的なものである。
この章は、3-12節では、油そそがれた祭司が罪を犯した場合について、13節以降は、イスラエルの全会衆が罪を犯した場合について、22節以降は、上に立つ者が罪を犯した場合について、27節以降は、一般人が罪を犯した場合について、それぞれ罪祭の捧げ方が記されている。
それぞれ、いけにえの動物に若干の違いはあるが、いずれも、人の罪を身代わりとなって引き受け、殺されるいけにえであり、これは、完全な罪祭のいけにえであるイエス・キリストを予表している。
『神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。』(2コリント5:21)
この、罪祭による動物のいけにえは、人の罪を完全に清め去ることは出来ない。もし出来たのであれば、一度清められたなら再び捧げる必要はないが、実際はそうではなく、むしろ、捧げるごとに罪が思い出されるものである。「なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。」(ヘブル10:1-4)
『それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、/「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、/『神よ、わたしにつき、/巻物の書物に書いてあるとおり、/見よ、御旨を行うためにまいりました』」。』(ヘブル10:5-7)
ここで記されているのは、詩篇40篇からの引用で、この箇所では「わたしのために、からだを備えて下さった」とあるが、その引用元である詩篇40:6では「からだ」ではなく「耳」となっている。
耳で聞く事は、からだと同等に大切である。
私達は肉体を持った人間である以上、罪を犯す事は免れない。そこで、私達が罪赦されるのは、いけにえによるのではなく、罪のからだがキリストにあって清められ、新しくされる事によってであり、そして、からだが贖われるには、イエスキリストを信じる信仰によって、そして、信仰は耳を用いて聞く事から始まる。
聞く事、そして、従う事は、どんないけにえよりも大切である。
『「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル15:22-23)
それ程、耳は重要であり、耳で御言葉を聞き、従う事こそ、主が喜ばれるいけにえなのだ。
『ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。』(ヘブル10:8-10)
祭司は、日ごとに同じようないけにえをささげるが、それらは、決して罪を除き去ることはできない。しかし、キリストは多くの罪のために、一つの、永遠のいけにえをささげた後、神の右に座された。彼は、自らの体を捧げられた事によって、私達を、清められた者として、永遠に全うされたのである。(ヘブル10:11-14)
『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19-21)