メッセージ - 罪祭 - 民の指導者や一般人の場合(レビ記4:22-35)
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今回の箇所は、人々の上に立つ人、あるいは、一般の人々が罪を犯した場合の罪祭(罪のためのいけにえ)の捧げ方である。
それは、祭司やイスラエルの人々全体が罪を犯した場合の捧げ方とは、若干異なる。
上に立つ人が罪を犯した場合、捧げられる動物は、傷のない雄やぎ(レビ記4:22-26)で、一般の人々の場合は、傷のない雌やぎ、あるいは雌羊とされている。(レビ記4:27-35)
今回の場合も、祭司や民衆全体が罪を犯した場合と同様、罪の身代わりとしてほふられる動物の頭の上に手を置いて罪を転嫁する点では同じだが、今回の場合、祭司が血を指につけて塗るのは、聖所にある香壇にではなく、外庭の出入り口の所にある、全焼のいけにえを焼く祭壇に、である。
祭司や民全体が罪を犯した場合は、聖所の中の香壇に血潮を塗るが、それは、最も聖なる至聖所の手前に置かれている。それ程、祭司や民全体が罪を犯した場合の深刻度は高く、主の御近くで罪を贖う必要があるが、一般人の罪のためのいけにえは、祭司の場合に比べて、より一般的、より日常に近いものとなっている。
全焼のいけにえを焼く祭壇は、主の大庭に入ると真っ先に目にするものである。
この、幕屋における祭壇の位置は、私達が主の御前に出る時には、主への捧げものを真っ先にすべきであり、罪の赦しを真っ先に得るべき事を、示している。
私達も、主に捧げたり、罪の赦しを祈る事は、日常的に、そして真っ先にすべきである。
罪のためのいけにえを捧げなくてはならなくなるきっかけは、「主がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行ない、罪に定められた場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら」であり、民の指導者の場合も、一般人の場合も、全く同じ記述がなされている。(レビ記4:22-23、27-28)
自分たちが罪を犯した、という自覚が、たとい無くても、御言葉で定められた事に違反するのであれば、それは主の御前に罪であり、それが明らかになったのであれば、それを正しく対処しなくてはならない。
その時は、指導者でも、一般人でも、それぞれに見合った「犠牲」を捧げなくてはならず、そして、罪の代価を支払うには、必ず、血が流されなくてはならない。
自分が育ててきた、傷のない動物を捧げる事、それは、心に痛みを伴うものだが、罪を贖うには、心の痛みが伴わなければならない。
イエス・キリストこそ、全ての人のために捧げられた、まことの罪祭のいけにえであるが、もし私達が、神の尊い御子キリストが苦しまれ、痛まれ、叫ばれ、神と人とに捨てられた事について、何の心の痛みも覚えないとしたら、それは問題である。
私達に罪が示されたなら、真っ先にそれを悔い改め、イエスの血潮で清めていただき、いち早く「罪あり」の状態から脱却し、サタンから訴えられる口実を、そして、神と隔てがある状態からいち早く脱出する皆さんでありますように!