メッセージ - 必ずしなくてはならない罪の贖い(レビ記5:1-13)
礼拝説教メッセージ音声:必ずしなくてはならない罪の贖い(レビ記5:1-13):右クリックで保存
レビ記5章の1節から13節までは、罪祭の補足規定が記されている。
主は、人が犯す罪については、富んでいる人であっても、貧しい人であっても、徹底的に取り扱うべき事を示している。
羊を買う余裕の無い者に対しては、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を捧げるように、それさえ買えない人には、十分の一エパ(2.3リットル)の小麦粉を罪のためのいけにえとして捧げるよう定めている。
1節から4節までの所には、具体的な罪の事例が記されており、例えば、正しく証言しなくてはならない場面において、敢えて「言わない」事によって罪を犯した場合(1節)、また、気づいていても気付いていなくても、死体や人の汚れに触れる事によって、罪を犯した場合(2-3節)、また、軽々しくくちびるを用いて誓った場合(4節)など。
そのように、主から「してはならぬ」と言われている事の一つでもを犯した場合、自分自身の口で、その罪を告白しなくてはならず、それから、やぎでも羊でも、雌一頭を罪祭として捧げる事が命じられている。
人が死体に触れるたびに、あるいは、軽々しく誓いを立てた度に、主の御前に一つのいのちが捧げられ死ななければならないとしたら、いったい人は、一生の間、どれほどの命を身代わりの犠牲にしなくてはならないのだろうか。
それは守れる人はいないのではないかと思えるくらい、罪ある人間には厳しすぎる。
ある人は、解釈する。
この律法を守れる人は、ひとりもいない、だから罪の犠牲は必要なく、その代わりに主は、人が精一杯がんばって、なるべき清く、正しく生きる事を願っておられるのだ、と。
そうではない。人は罪を犯したら、確かに、犠牲の血をもって償いをしなくてはならず、そこには旧約も新約も、ユダヤ人もギリシヤ人も、富めるも貧しきも、変わりはない。
では人は一体、何によって罪から救われるのか。
動物の血によっては、人の罪を取り除くことは出来ず、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのみである。(ローマ3:20、ヘブル10:1-11)
『しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。』(ローマ3:21-25)
『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。・・・これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。』(ヘブル10:14,18-19)
今や、私達の罪のために捧げられた、唯一完全なる犠牲、それは、イエス・キリストである。