メッセージ - 素祭(穀物の捧げもの)に関する祭司のつとめ(レビ記6:14-23)
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今回の箇所は、素祭、すなわち、穀物の捧げものについて「アロンとその子たち」に命じている事である。
素祭の麦粉のうち、一握りを、油と乳香を共に取って「記念の分」とし、祭壇の上で焼いて香ばしいかおりとして主にささげなくてはならない。(レビ記6:15)
この、一握りの「記念の分」は、真っ先に焼き尽くされ、主の御前に香ばしいかおりとして捧げられるが、同じように、キリストも、私達の初穂として、長兄として、父なる神に捧げられ、その香ばしいかおりの故に、父なる神は、完全になだめられた。
素祭の残りの部分は、祭司の食物となる。
『これは種を入れて焼いてはならない。わたしはこれをわたしの火祭のうちから彼らの分として与える。これは罪祭および愆祭と同様に、いと聖なるものである。アロンの子たちのうち、すべての男子はこれを食べることができる。これは主にささげる火祭のうちから、あなたがたが代々永久に受けるように定められた分である。すべてこれに触れるものは聖となるであろう』」。』(レビ記6:17-18)
キリストは、素祭の記念の部分として、香ばしいかおりとして全て捧げられたが、それに続く私達は、父なる神の御心を行い、その御業を成し遂げる事によって、大祭司なるキリストの食物を整えるのだ。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)
私達も、キリストにあって、祭司とされた。
祭司は、聖なる場所で種入れぬパンによって、特権的に養われたように、私達も、種を入れぬパン、すなわち「人間のおしえ」というパン種が一切入っていない、純粋な御言葉のパンによってのみ、特権的に養われるべきである。
『「アロンとその子たちが、アロンの油注がれる日に、主にささぐべき供え物は次のとおりである。すなわち麦粉十分の一エパを、絶えずささげる素祭とし、半ばは朝に、半ばは夕にささげなければならない。それは油をよく混ぜて平鍋で焼き、それを携えてきて、細かく砕いた素祭とし、香ばしいかおりとして、主にささげなければならない。』(レビ記6:20-21)
元々、素祭は、もみ殻がついたままではなく、殻が抜かれ、露わとなった実はさらに砕かれた状態で幕屋へ持ち込まれるのだが、アロンとその子たち自身が捧げるこの素祭は、そこからさらに油を混ぜられ、よく練り込まれ、フライパンで焼かれ、さらにまた細かく砕かれ、そして最後には、焼き尽くされる。
これは、まさしく徹底的に砕かれたキリストをあらわしており、また、主に捧げ尽くしたいというい献身者を表している。
真に油注がれた方、キリストは、油絞りの場、ゲツセマネの園で祈られた。
『「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。』(マルコ14:36)
キリストはゲツセマネで「わたしの思いではなく御心のままに」という祈りによって油塗りこまれ、ピラトの庭で砕かれ、ゴルゴダの丘の十字架上でも、徹底的に砕かれ、身も心も焼き尽くされる経験をされた。
私達も、主にあって献身者であろうとすればするほど、全く砕かれっぱなしとなる。
余分な殻は抜かれ、粉々に砕かれ、さらに油混ぜられ、平鍋の上で焼かれ、さらにまた砕かれていき、最後には、焼き尽くされる。
そうして行くうちに、自らのわざをさらに止め、さらに主に身を委ねて行くようになるため、ますます楽に、ますます甘く、麗しく、ますます栄光に富んだ経験となっていくのだ。