メッセージ - 祭司が受ける分(レビ記7:1-10)
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愆祭(罪過のためのいけにえ)は、罪祭と同様、祭司の食物とされる部分があり、それは「最も聖なるもの」とされる。
『祭司たちのうちのすべての男子は、これを食べることができる。これは聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物である。罪祭も愆祭も、そのおきては一つであって、異なるところはない。これは、あがないをなす祭司に帰する。』(レビ記7:6-7)
祭司は、一般人が捧げたいけにえの中から、受け取る分がある。
燔祭、すなわち全焼のいけにえは、まず皮が剥がれ、解体され、全て焼かれるものである事を1章で学んだが、その皮は焼かれず、祭司が受ける分として残された。(レビ記7:8)
キリストも、燔祭のいけにえのように、十字架という祭壇に捧げられる前、ローマ兵達によって身ぐるみ剥がされ、下着はくじでひかれ、衣は全て奪い取られた。(詩篇22:16-18)
私達も、罪ある邪悪な者達であったが、キリストの贖いの衣が与えられ、キリストを着る事によって、キリストと一つとされ、約束の相続人とされた。(ガラテヤ3:27-29)
素祭についても、祭司の食物とされる分がある。(レビ記7:9-10)
このように、主の宮で働く祭司には、捧げ物の中から受け取るべき分があるが、それは、新約においても同じである。
パウロはこう言っている。
『あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。』(1コリント9:13-14)
確かに、主のために宣教したり牧会したりするフルタイムの献身者は、聖徒達の献金によって生活する権利は与えられている。
しかし、献身者は、金銭を得る事を当てにして働くのではなく、「キリストの福音のために」働くのである。(1コリント9:12)
パウロは、「献金によって生活する権利」が、福音の妨げとならぬよう、また、自らの手でしっかり働くべきである事を身を持って示すために、その権利を手放し、自らの手で働きながら福音の働きをした。
『もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。』(1コリント9:11-12)
パウロはむしろ、聖なるプライドの故に、自らその権利を投げうった。
『しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。』(1コリント9:15)
献身者を目指す人の中には、厳しい社会で揉まれるのが嫌だから、比較的「優しい」人達が集うキリスト教業界の中から糧を得、ぬくぬくしようと、逃避的な動機で目指す人も中にはいるが、世の働きという「小さな事」さえまともに出来ない人は、神の国の働きという「大きな事」を担うべきではない。
主の働きは、一般社会での働きよりも、より大きな信仰が必要であり、より多くの忍耐と服従が求められるし、世の事業における責任よりも、永遠のいのちに携わる責任のほうが大きいからだ。
祭司が受ける分、献身者が受ける分は確かに与えられているが、それを当てにするのではなく、「キリストの福音のために」働く事が第一目的である事を忘れてはならない。