メッセージ - 酬恩祭(和解のいけにえ)を共に食べる時は(レビ記7:11-21)
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和解のいけにえ(酬恩祭)の「和解(シェラミーム)」ということばは、平和な、調和ある、安全な、と訳すことが出来る。
この祭りは、神様との和解を喜び、あふれる感謝の祭りであり、神と民と、祭司とが「交わり」を持てる祭りである.
『主にささぐべき酬恩祭の犠牲のおきては次のとおりである。もしこれを感謝のためにささげるのであれば、油を混ぜた種入れぬ菓子と、油を塗った種入れぬ煎餅と、よく混ぜた麦粉に油を混ぜて作った菓子とを、感謝の犠牲に合わせてささげなければならない。また種を入れたパンの菓子をその感謝のための酬恩祭の犠牲に合わせ、供え物としてささげなければならない。』(レビ記7:11-13)
この祭りで捧げるものは、種入れぬ菓子(cakes)、種入れぬせんべい(ウェハース)、そして、種を入れたパンの菓子で、祭司はその中から一つづつを取り分として受け取る。
シンプルで飾り気のあまり無かった燔祭や素祭に対し、酬恩祭の捧げものは、楽しげなものである。
酬恩祭の捧げものには、三種の目的がある。
すなわち、「感謝」、「誓願」、「自発」であり、それぞれには、それぞれ食べて良い期間がある。
もし「感謝」のために捧げたものであるなら、捧げる人がその日のうちにその肉を食べなければならず、それが「誓願」あるいは「自発」の供え物であるなら、明くる日でも、食べることができる。
ただし、その肉の残りは、三日目には火で焼き捨てなければならない。(レビ記7:15-17)
もし、食べて良い期間を過ぎているのに食べるのであれば、その捧げものは受け入れられず、供え物と見なされず、かえって汚れた物となり、咎を負わなければならない。
このように、酬恩祭のいけにえは、食べて良い期限があるが、それぞれの内容には、意味がある。
感謝のためのいけにえは、その日のうちに食べるものであるが、もし私達が「主に感謝すべき事」を示されたのなら、その「感謝」は先延ばししたりせず、その日の内に為すべきである。
また、現代の私達の「交わり」にも、それが出来る期限がある。
たまに、礼拝が終わったと同時に帰ってしまう人や、交わりの時間になると突然何かの仕事をし出したりして、交わりに参加しない人もいるが、「交わるべき時」には、しっかり交わっておくべきである。
そうでないと、せっかく「霊的ごちそう」が用意されているのに、それをみすみす放っておいてしまうようなものである。
主が良くして下さった事を共に感謝し、主の素晴らしさを共に喜び、共に食卓を囲む。その「交わり」の一時は、とても楽しく喜ばしい、「霊的ごちそう」の一時である。
また、汚れを受けた人は、酬恩祭のいけにえを食べてはならない、とされている。
『その肉がもし汚れた物に触れるならば、それを食べることなく、火で焼き捨てなければならない。犠牲の肉はすべて清い者がこれを食べることができる。もし人がその身に汚れがあるのに、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。また人がもしすべて汚れたもの、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた獣、あるいは汚れた這うものに触れながら、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう』」。』(レビ記7:19-21)
現代でも、自ら良からぬ事を思いめぐらし、聖徒の交わり全体にその「汚れ」を撒き散らして、交わりを台無しにしてしまうような「汚れた人」がいる。
例えば、交わりの時間になると、狙い済ましたかのように、どうでも良い物事を押し付けたり、その場の全員を強烈に世的な話題に引きこもうとしたり、あるいは、大きな音をかき立てたり(皿をがちゃがちゃしたり、楽器を演奏するボリュームを大きくしたり、風邪を引いていないのに大げさに咳をしたり)などして、交わりの会話を台無しにしてしまう人もいるが、そのような「汚れ」の要素がある時は、全体の交わりには参加しないほうが良い。
むしろ、主の御前に一人で出て、イエスの血潮で自らの汚れを清めていただくか、あるいは、二人また三人による、親密な「御言葉」の水の洗いの中で、心の汚れを清めていただくべきである。