メッセージ - 主のしもべの道(ヨハネ21:18-25)
主のしもべの道(ヨハネ21:18-25)
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『あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、「行きたくない(ethelo:「意図」しない)」所へ連れて行くであろう」。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。』(ヨハネ21:18-19)
自分で帯をしめ、望む所へ行き、やりたい事を追求しているようでは、主のしもべとしてはまだまだ若く、未熟であるが、成熟すればする程、自分のやりたい事を主の御前に手放し、ただ主に導かれるままとなる。
物事を自分の思い通りに行かせようとする「未熟なしもべ」は、自由でいるようでいて、実はそうではない。
モグラ叩きのごとく、あちらこちらから噴出する問題を、ひたすら対処しなくてはならないからだ。
しかし、成熟したしもべは、全てをご存知で最善へと導いて下さる主の導きに両手離しで委ねるため、自分の思う通りに行かせようと奮闘する必要がなく、「楽」である加減も、安息の度合いも、非常に大きい。
たとい、その先に苦難や死が待っていると分かっていても、聖霊の促しによって、そうせざるを得ない衝動となり、進んで行う願望として、突き動かされて行くのだ。
パウロがエルサレムを目指して進んでいた時、行く先々の兄弟姉妹達は、パウロの行く道に苦難が待ち受けている事を、聖霊によって示され、「行かないでください」と涙ながらに懇願したが、パウロは言った。
「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ。」(使徒21:13)
人々の願いとしては、パウロが生きていて、いつもパウロからメッセージを頂いたり、導きを得る事だった。
彼らの指示どおり、もしパウロが行かなかったなら、確かに彼は安全に、安心に、生き延びる事が出来、そして各地にいる多くの兄弟姉妹達と、もっと一緒に、楽しく、交われる時間を長びかせられただろう。
しかし、聖霊に導かれる成熟したしもべにとって「御心」は強烈な拘束力であり、それは人間的でセンチメンタルな愛着を、振り払う。行かず、伝えずに生き延びるよりも、行って、伝えて死ぬほうが、御心であり、それで福音といのちが、さらに増え広がる事であるなら、成熟したしもべは、行かざるを得ないのである。
私達も、主に仕える者になれば、なるほど、そのように自身の望みを主イエスの名のために手放し、主の望まれるままに導かれていく事を、せつに願い求めるようになって行くのである。
ペテロは主から「あなたはこうなる」と言われた時、ヨハネを見て、「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねた。
人は、どうしても、他人の事が気になるもので、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。」と主が言われたのに、他の弟子達は、その言葉を早速気にして、「ヨハネは死なない」と勝手な解釈をし、誤解の噂を早速広めてしまった程である。
主が言われた事を、自分の思い込みというフィルターを通して身勝手に解釈してしまうと、不健全な噂を広めたり、兄弟姉妹の間に混乱を招いてしまったりする。主が言われた事は、そのまま受け止めるべきである。
人がどう願うかは、さほど重要ではない。ただ、御父が定められた通りの御心が成っていく。
イエス様の「誰々はどうなって欲しい」という願いより、実はもっと重要な事がある。それは「あなたは、わたしに従ってきなさい。」という主の言葉であり(22節)、主に従っていく事こそ、誰彼の願いよりも重要である。
主がヨハネに生きていて欲しいと願ったように、主は、私達が生きて、幸いを得、健やかである事を、確かに願っておられる。しかし、いかに主が「死なない事」を願っていたとしても、福音のゆえに死ぬ事が定められている人は、死ぬのであり、主のしもべは、ただ自分に量り与えられた使命を、両手を広げて受け入れ、御霊の導きに委ね、そのまま生きるのみである。そしてその道は、平安と安息、栄光に満ちている。
私達が、自分の好きな帯を締め、やりたい事成した数々を、日記に書き記すなら、人に見せられる内容は、せいぜいわずか、むしろ、誰にも読まれたくない内容ばかりであるが、主イエスの御業は何もかも素晴らしく、それらを書物にして書き記すとすれば、この世界さえ、その文書を収めきれない程である。(25節)
そうであるからには、この御方に全てを委ねる事のほうが遥かに確実で、委ねない事のほうが、断然、損である。主に全てを委ね、平安と確実さと栄光に富んだ人生を歩んでいく皆さんでありますように!