メッセージ - 任職のための七日という期間(レビ記8:14-36)
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大祭司の任職において必要なもう一つ過程、それは、動物のいけにえである。
最初に捧げられるのは「罪のためのいけにえ」、その次は「全焼のいけにえ」、そして、「任職のいけにえ」と続くが、この順番は、とても意義深い。
私達も、神と人との間に立つ祭司として主に用いられるには、まず「罪の清め」を経なくてはならず、それを経て後は「全焼のいけにえ」、すなわち、思い、意思、感情全てを主に服従させ、全身全霊をもって主に献身する事が必要であり、そうしてこそ、祭司として相応しく整えられるのである。
任職の雄羊の「任職(mil-loo)」という言葉は、成就、聖別、献身とも訳す事が出来る。
「聖」とは、分離を意味する。故に、祭司に「任職」されるとは、俗なるものから聖なるものへと分離され、神へ全き献身する事を意味する。
私達キリスト者は、キリストにあって王族の祭司とされた(1ペテロ2:20)。
という事は、キリスト者は世と分離し、神へ献身する者、もはや世のためでなく、天のため、自分のためでなく、キリストのために生きる者達である。
『彼はまたほかの雄羊、すなわち任職の雄羊を連れてこさせ、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置いた。モーセはこれをほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指とにつけた。』(レビ記8:22-23)
祭司の任職式で特徴的なのが、血を、右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指とにつける行為だが、「右」は力と権威を象徴し、「耳」は聞き従う器官、「手」は行う部位、「足」は、歩む部位である。
祭司の耳は、手や足よりも重要である。なぜなら、祭司は神の御声を正しく聞き、民の声を正しく聞く必要があるからだ。
『あなたがたはその任職祭の終る日まで七日の間、会見の幕屋の入口から出てはならない。あなたがたの任職は七日を要するからである。』(レビ記8:33)
この七日の期間、任職のための特別なパンと肉を食べなくてはならない。それは特別なものであるため、他の人は食べてはならず、残ったら、火で焼き捨てなければならない。(レビ記8:25-32)
この七日という期間、世俗に戻る事は許されず、幕屋という聖なる場所にとどまり続け、主の庭に住み、主を思い続ける。
そして、思いも意思も感情も、体も、主の御用として用いられるにふさわしく清められる事に集中し、聖なる者とされる事に集中するのだ。
教会に住みたい、という人がいても、その理由が、さみしさを紛らわせたいとか、居ればなんとなく落ち着く気がするとか、あるいは、教会を何か慈善団体の簡易宿泊所のように思っているような人は、たとい何日教会に住んでも、何の変わる所は無い。
しかし、心のうちに、主を思い焦がれる思いがあるのなら、たとい、仕事などの事情で教会に来れない日が何日か続いても、その人は、どこにおいても主を認め、主に愛され、ますます霊的に成長して行く。
大事なことは、幕屋や教会といった「場所」よりも、その人自身の内に、主を慕い求める心、生ける神を喜ぶ心がある事である。
『なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。』(詩篇84:5-7)