メッセージ - 主の栄光の歩みをするために(レビ記9:1-14)
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七日の任職期間を経、神と人との前に正式に大祭司となったアロンが、最初に為さねばならなかった仕事は、自分自身の贖いのために、祭壇でいけにえを捧げる事であった。
『八日目になって、モーセはアロンとその子たち、およびイスラエルの長老たちを呼び寄せ、アロンに言った、「あなたは雄の子牛の全きものを罪祭のために取り、また雄羊の全きものを燔祭のために取って、主の前にささげなさい。』(レビ記9:1-2)
今、キリスト者である私達が、自らの全てを捧げる「祭壇」は、十字架である。
キリストは、十字架の上で、自分の意思を尽く御父の前に降ろし、十字架の上で、完全にご自身を捧げられた。
任職式においては、七という完全数が満ちるまで、日々、祭壇の贖いと、その人自身の贖いとが、毎日なされたが、同じように、私達も、主が量られた期間が満ちる時まで、日々、自分の十字架を負い、その上で主イエスについて行くべきである。
『それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。』(マタイ16:24-25)
『あなたはまたイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは雄やぎを罪祭のために取り、また一歳の全き子牛と小羊とを燔祭のために取りなさい、また主の前にささげる酬恩祭のために雄牛と雄羊とを取り、また油を混ぜた素祭を取りなさい。主がきょうあなたがたに現れたもうからである』」。』(レビ記9:3-4)
自分自身の贖いが済んだ祭司が、次に為すべきは、民のための贖い、すなわち、民のために罪祭、燔祭、酬恩祭、素祭を捧げる事であった。
これについては次回見て行くが、これらの事を為さねばならない理由は、明確に、次のように言われている。
「これは主があなたがたに、せよと命じられたことである。こうして主の栄光はあなたがたに現れるであろう」(レビ記9:6)
皆さんは、自分の生活の中に、職場に、家庭に、主の栄光を見たいと思うだろうか。主が直々に、生き生きと、皆さんの家庭や職場において、働かれるのを見たいだろうか。
そうであるなら、その主の臨在を呼びこむためのエッセンスが、このレビ記に記されている。
主の栄光が現れるための、第一ステップは、まず、罪祭と燔祭であった。
祭司は、神と人との間に立って執り成し、祈り、いけにえを捧げる者である。私達もキリストにあって祭司とされたからには、真っ先に、自分自身の罪を対処する必要がある。
もし私達の中に罪が手付かずにそのまま残っているとしたら、その罪が、神と私達との間に隔たりとなってしまい、どんな良き犠牲を捧げても、主は受け入れて下さらない。(イザヤ59:1-4)
だから真っ先に、罪を取り扱う必要があるのだ。
罪を対処した後に、捧げるべき捧げものは、全焼のいけにえである。
現在、私達が捧げる「全焼のいけにえ」とは、「私達自身」である。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1)
そのように、まず、私達の罪を、イエスの血潮によって、御言葉の水の洗いによって取り扱い、続いて、私達自身の思いも意思も感情もキリストに服従させ、自分自身を主に捧げるなら、私達の執り成す祈りを、主は聞いて下さり、人々のための贖いも出来るようになり、主の栄光が現れて下さるのだ。
主の栄光の内を歩む事、主が共におられる事、これこそ、私達が「神の民」と呼ばれるゆえんである。