メッセージ - コンシューマー・サービス(レビ記9:15-14)
礼拝説教メッセージ音声:コンシューマー・サービス(レビ記9:15-14):右クリックで保存
自分自身の贖いを済ませた祭司アロンが、次に為す事は、民のための贖いであり、そのために主から命じられている事は、罪祭、燔祭、酬恩祭、素祭を捧げる事である。
真っ先に罪祭(罪のためのいけにえ)を捧げる所は、祭司の贖いと同じである。
民も、まず罪を取り扱わなくてはならない。
なぜなら、罪は神と人との隔たりとなってしまうからだ。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。あなたがたの手は血で汚れ、あなたがたの指は不義で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、あなたがたの舌は悪をささやき、ひとりも正義をもって訴え、真実をもって論争する者がない。彼らはむなしきことを頼み、偽りを語り、害悪をはらみ、不義を産む。』(イザヤ59:1-4)
続いて捧げられるのが、燔祭(全焼のいけにえ)である。
燔祭は、自らを捧げる献身を意味し、献身なくば、祝福はいただけない。
「この時代において幾倍もの祝福を受け、来るべき世で永遠のいのちを受ける」者とは、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者」であり(ルカ18:29-30) 、食べ物や着る物などがすべて添えて与えられる者とは、「まず神の国と神の義とを求め」た者である。(マタイ6:33)
主から祝福をいただくには、必ず、それなりの「献身」が必要だという事ある。
それに続いて捧げられるのは、素祭(穀物の捧げもの)である。
祭司の場合は、罪祭と燔祭のみだったが、祭司には土地の相続が与えられていない。
それ故、一般人は、自分達の相続地から得られた、勤労の実である穀物を捧げるのだ。
そして、最後に捧げられるのが、酬恩祭(和解のいけにえ)である。
酬恩祭は、以前も学んだとおり、神と、祭司と、捧げた人とが、共に同じ食物からいただくごちそうであり、同じテーブルに座って共に宴会をするかのような、神と人との楽しい交わりである。
これを捧げる事によって、神と人との平和が実現する事になる。
そして今や、キリストこそ、まことの和解のいけにえである。
『キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:14-16)
以上、これら全てのいけにえを捧げた後、アロンは祝福した。そしてアロンの祝福は神に受け入れられ、神の元から火がくだり、いけにえを受け入れられた。
『モーセとアロンは会見の幕屋に入り、また出てきて民を祝福した。そして主の栄光はすべての民に現れ、主の前から火が出て、祭壇の上の燔祭と脂肪とを焼きつくした。民はみな、これを見て喜びよばわり、そしてひれ伏した。』(レビ記9:23-24)
主は、焼きつくす火である。(ヘブル12:29) 英語の聖書では、コンシューミング・ファイアーである。
最近、ビジネス用語でコンシューマーという言葉を良く耳にする。
コンシューマーとは、お客様、消費者であり、コンシューマーを意識したビジネス展開が重要であるが、神こそ、真に私達のコンシューマーである。
人々の中には、色々な教会の礼拝を物色し、あっちの礼拝(サービス)は甘い、こっちのは辛い、などと、自分をコンシューマーとし、教会をサービス提供者のように思っている人がいるが、そのような人は、自分の立場が分かっていない。
神こそコンシューマーであり、私達はサービス(礼拝)を捧げる側である。
主を敬う心をもって正しく礼拝を捧げるなら、主は炎をもってその礼拝を受け入れて下さるが、身勝手に捧げるならば、主は、その人自身を焼きつくす火として現れる。
その事については、次回見て行きたい。