メッセージ - 汚れを受けた場合の対処(レビ記11:24-38)
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『あなたがたは次の場合に汚れたものとなる。すなわち、すべてこれらのものの死体に触れる者は夕まで汚れる。』(レビ記11:24)
レビ記では「汚れ」や「死体」に触れれば、「洗わなければならず」、「夕方まで汚れる」という指示が、度々出てくるが、「汚れ」という望ましくない状態に陥ったなら、定められた手順をきちんと踏んで対処し、努めて脱却すべきである事を、主は教えている。
汚れを受けたなら「日が沈む前に」「その日の内に」対処しなくてはならない。対処せずに日をまたぐと、汚れた状態をそままずっと持ち越してしまう事になる。
私達も以前は汚れた者としてサタンに支配され、罪と罪過の内に死んだ者、「汚れた者」であった。
しかし、憐れみ豊かな神の、私達を愛するその大きな愛によって、救いの手が差し伸べられ、キリスト・イエスを信じる信仰によって救われ、神にあって生きたもの、「きよい者」とされた。(エペソ2:1-6)
しかし、もし私達が再び、世のならわしへと入って行き、罪の内へと入るなら、汚れた者となり、神の御前に、死んだ者となってしまうのだ。
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は「死んでいる。」・・・しかし、サルデスにはその「衣」を汚さない人が、数人いる。彼らは白い「衣」を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。』(黙示録3:1-4)
世俗の人達の、罪の行いに関わったり、触れたりして、その衣を汚したなら、対処が必要である。
レビ記では、衣を水で洗わなければならない、とあるが、私達の罪に汚れた衣を清めるものは、何だろうか。
それはまず、イエスの血である。
『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられた「キリストの血」は、なおさら、わたしたちの「良心」をきよめて「死んだわざを取り除き」、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:13-14)
まず、イエスの血潮によって、汚れた良心を清められ、死んだわざが取り除かれ、生ける神に仕えるものとされる。
そして、罪を洗い清める「水」は、御言葉である。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26-27)
私達が世から汚れを受けたなら、イエスの血潮によって汚された良心を清め、御言葉の水によってすすぎ、汚れや偽りという「しみ」を除くのである。
「その人は夕方まで汚れる」とある通り、御言葉の水で洗えば、すぐに気持ちが晴れるかといえば、そうではないかもしれない。
思いも晴れ晴れするまでに、ある程度の時間がかかるかもしれないが、続けてイエスの血で上塗りし、御言葉の水ですすぎ続けるのである。
『またそれらのものが死んで、それが落ちかかった物はすべて汚れる。木の器であれ、衣服であれ、皮であれ、袋であれ、およそ「仕事に使う器」はそれを水に入れなければならない。それは夕まで汚れているが、そののち清くなる。』(レビ記11:32)
私達は世に出て仕事をする時、世から汚れを受ける事を免れないが、汚れを受けた都度、御言葉の水の中に入れるのである。
『またそれらのものが、土の器の中に落ちたならば、その中にあるものは皆汚れる。あなたがたはその器をこわさなければならない。』(レビ記11:33)
土の器は、染みこむものである。
もし罪がその身に染み込んでしまったら、粉々に割るくらいの思い切りで、その罪から離れたほうが良いのだ。
『またすべてその中にある食物で、水分のあるものは汚れる。またすべてそのような器の中にある飲み物も皆汚れる。またそれらのものの死体が落ちかかったならば、その物はすべて汚れる。天火であれ、かまどであれ、それをこわさなければならない。これらは汚れたもので、あなたがたに汚れたものとなる。』(レビ記11:34-35)
ここは、食料として口に入るものを入れる器や、食料をるくる「かまど」についてであるが、世の罪や汚れが、家の中、ことに台所にまで入り込んだら、かまどを割るくらいに、徹底的に取り除いたほうが良いのだ。
特に口に入るもの、食卓の中に汚れが入り込んでしまうなら、それほど徹底して対処しなくてはならない。
『ただし、泉、あるいは水の集まった水たまりは汚れない。しかし、その死体に触れる者は汚れる。』(レビ記11:36)
イエスこそ、まことの命の泉である。
12年長血を患った女は、律法上は汚れていたが、信仰をもって命の泉なるイエス様の衣に触れた時、汚れは清められた。
『それらのものの死体が、まく種の上に落ちても、それは汚れない。ただし、種の上に水がかかっていて、その上にそれらのものの死体が、落ちるならば、それはあなたがたに汚れたものとなる。』(レビ記11:37-38)
「種」は御言葉そのものであり、御言葉に汚れが落ちた所で、なんともないが、人の心に御言葉の種が蒔かれ、水がまかれ、根が出た状態で、その蒔かれた御言葉の上に汚れが落ちるとするなら、対処しなくてはならない。
私達は汚れを受けた場合、イエスの血によって汚された良心を清め、御言葉の水によってすすぎ、汚れや偽りという「しみ」を除くのだ。