メッセージ - ツァラアトに現れる生肉(レビ記13:9-17)
礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトに現れる生肉(レビ記13:9-17):右クリックで保存
『もし人にらい病の患部があるならば、その人を祭司のもとに連れて行かなければならない。祭司がこれを見て、その皮に白い腫があり、その毛も白く変り、かつその腫に生きた生肉が見えるならば、これは古いらい病がその身の皮にあるのであるから、祭司はその人を汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、これを留め置くに及ばない。』(レビ記13:9-11)
らい(ツァラアト)の患部に、「生きた生肉」があらわれる場合、それは古くからあるもの、すなわち慢性のものであり、その存在は誰の目にも明らかに「ある」ため、祭司はわざわざ隔離して様子見する事なく「汚れている」と宣言する。
生きた生肉(raw flesh)、これこそ「汚れている」と宣言される原因である。(10,16節)
聖書の中で、肉(flesh)とは、神から切り離された生き方をする人間性、自分の魂(思い・意志・感情)や身体能力だけで生きる有様を意味し(創世記6:3)、そのような「肉」の振る舞いは、神の御前には汚れたものである。
『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。』(ローマ7:18-20)
肉の性質は、ただ御前に腐敗しており、改善の余地は無く、死、あるのみである。
『もしらい病が広く皮に出て、そのらい病が、その患者の皮を頭から足まで、ことごとくおおい、祭司の見るところすべてに及んでおれば、祭司はこれを見、もしらい病がその身をことごとくおおっておれば、その患者を清い者としなければならない。それはことごとく白く変ったから、彼は清い者である。』(レビ記13:12-13)
ツァラアトの兆候が少しでも広がっていたら、容赦なく「汚れている」と宣言されていたのに、全身、頭から足まで全てがツァラアトに覆われていたなら、逆に「清い」と宣言される・・・。一見不思議に見えるが、それは十字架の福音に合致する。
ツァラアトは、「崩壊する」「打ちくだく」の意味があり、神の御手によって打たれる事を意味していたが、その「打たれたしるし」が全身にあり、「肉」がもはやない状態、すなわち、古き肉の性質が、徹底的に神によって取り扱われた状態なら、祭司によって「きよい」と宣言される。
私達も、神に打たれたしるしである「十字架」を負い、この「肉」の体は、徹底的に主の御手に委ね、死へと明け渡すのであれば、たとい緋のように赤い罪であっても、雪のように白くされ、きよいとされるのである。
『わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 』(ローマ6:6)
肉、それはアダム以来の神から離れた生き方である。神と人の前から隠そうとするなら、ツァラアトの中から「肉」が見え隠れする人のように、「汚れている」とされる。
しかし、自分の中に「罪」がある事を、神と人との前にはっきり認め、自らの「肉」を、十字架の死へと明け渡すなら、全身白くなり生肉の無くなった人のように「きよい」とされる。
私達の「肉」を殺すのは、御霊である。
『それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。』(ローマ8:12-14)
『こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。』(ローマ8:1-3)
自らの肉を十字架によって処罰し、御霊にあって、きよい生き方を歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!