メッセージ - 大贖罪日の準備(レビ記16:1-10)
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レビ記16章は、年に一度の大贖罪日(ヨム・キプール)に、祭司が為す務めについて記されている。
この事を教えるにあたり、真っ先に主が思い起こさせた事は、あの恐ろしい事件、主の御前から火が出て、アロンの二人の子を焼き尽くした出来事だった。
『アロンのふたりの子が、主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに言われた、「あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである。』(レビ記16:1-2)
人は、いたづらに聖なる主の御前に出てはならず、必ず、主が提示された方法に従うべき事を教えている。
主の栄光が現れる。
それは素晴らしき事である。
主の臨在、それはキリスト者であるなら、誰でも求めるものであろう。
しかし、主の御前に出る時、人間の側の「勝手」は一切通用しない。
主の側が示された作法に、100%従うべきである。
そうでないと、主の栄光は逆にその人自身を滅ぼしてしまうものとなってしまう事は、レビ記10章で既に見ているし、民数記の至る所でも記されている通りである。
『アロンが聖所に、はいるには、次のようにしなければならない。すなわち雄の子牛を罪祭のために取り、雄羊を燔祭のために取り、聖なる亜麻布の服を着、亜麻布のももひきをその身にまとい、亜麻布の帯をしめ、亜麻布の帽子をかぶらなければならない。これらは聖なる衣服である。彼は水に身をすすいで、これを着なければならない。』(レビ記16:3-4)
大贖罪日において、まず真っ先に為すべきは、イスラエル全体の贖いを執り行う大祭司自身の、罪の贖いである。
そのために、雄の子牛を罪祭として取り、雄羊を燔祭のために取る。
人間の祭司は、弱さがあり、罪を犯すし、不完全である。キリストこそ、罪なく完全な大祭司である。
『このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。』(ヘブル7:26-28)
そして、次に準備するのが、イスラエルの人々のための贖いとなる雄やぎ二頭、これを罪祭のために取り、雄羊一頭、これを燔祭のために取る。
二頭のやぎに関しては、特別な捧げ方をする。
『アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。』(レビ記16:7-8)
アザゼルとは、アザール(完全に除去する)の変化形で、KJVではスケープゴートと訳されており、人々の罪を一身に負い、人々の身代わりとなって荒野を遠く追いやられる山羊である。
大贖罪日、それはイスラエル全体の罪を贖い、神の御前に「罪なき」とされる日であるが、人類全体の罪を取り除く、まことのいけにえは、イエスキリストである。
神様が規定したこれらの行為の背後には、いつも、キリストがいる事を忘れてはならない。
『しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:11-14)