メッセージ - 大贖罪日の贖いのつとめ(レビ記16:11-22)
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『彼が聖所であがないをするために、はいった時は、自分と自分の家族と、イスラエルの全会衆とのために、あがないをなし終えて出るまで、だれも会見の幕屋の内にいてはならない。』(レビ記16:17)
大贖罪日の贖いの務めは、一人の大祭司の手によって執り行われる。
同じように、人類全体の贖いも、キリストという一人の大祭司によって行われた。
今回の箇所は、大贖罪日にて大祭司が執り行うべき事の指示で、この日、大祭司が為す事は、大きく分けて三段階ある。
その第一のステップは、まず、大祭司自身とその家族のための贖いであり、そのためにまず罪祭の雄牛をほふる。
そして、祭壇から炭火を満たした香炉と、細かくひいた薫香を両手いっぱいに取って垂幕の内に携え入り、主の前に薫香をその火にくべ、薫香の煙で、契約の箱の贖罪蓋を覆わせ(レビ記16:11-13)、大祭司と契約の箱の間に、香り高い香の煙を置く事によって、罪ある大祭司が直接、主の栄光に触れぬようにする。
そうしてから、罪祭でほふった血潮を、七という完全数が満ちるまで、振りかける。
『こうして、彼は死を免れるであろう。』(レビ記16:13)とある通り、一連の手順を一歩でも間違えると、死ぬ事があったのだ。
こうして、まず、贖罪を執り行う大祭司自身の贖いが為される。
第二のステップは、民全体の罪咎の故に汚れてしまった聖所、会見の天幕、祭壇のための贖いである。(レビ記16:15-19)
聖なる場所が、人々の罪の故に汚れ、その「聖」をあらわさなくなってしまう、という事は、実際にある。誤って契約の箱に触れるなら、大祭司でさえ死んでしまったというのに、イスラエルの罪が甚だ大きくなった時には、異邦人の手で、やすやすと、契約の箱が奪われてしまった。
同じように、かつては聖なる性質を現していたキリスト者であっても、罪に罪を重ねているなら、主の栄光は離れ、もはや聖なる趣きを醸さなくなってしまうのだ。
それ故、会見の天幕と、祭壇から、人間の汚れを取り除くための贖いが必要なのである。
『そして彼は主の前の祭壇のもとに出てきて、これがために、あがないをしなければならない、すなわち、かの雄牛の血と、やぎの血とを取って祭壇の四すみの角につけ、また指をもって七たびその血をその上に注ぎ、イスラエルの人々の汚れを除いてこれを清くし、聖別しなければならない。』(レビ記16:18-19)
民の罪を清めるために、祭司は罪祭のやぎをほふり、その血を垂幕の内に携え入って、祭司自身の贖いの時のように、贖罪蓋にその血潮をかける。
こうして大祭司は、イスラエルの人々の汚れと罪咎のゆえに汚れてしまった聖所と、会見の幕屋の贖いをする。
三番目のステップは、イスラエル全体の罪を、一匹のやぎに移し、それを遠くに追いやる事である。
『そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう。すなわち、そのやぎを荒野に送らなければならない。』(レビ記16:20-22)
大祭司が、そのやぎの頭に手を置き、イスラエルが犯してきた思いつく限りの罪をことごとく告白して、全ての罪を、そのやぎに転嫁する。
そしてやぎは荒野へと解き放たれ、イスラエルの共同体から、遠く離れて行く。
このやぎは、まさしくキリストのご性質を現している。
『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。』(イザヤ53:4-6)
キリストがイスラエル共同体から外へ追い出され、全ての罪、全ての病、全ての悲しみを背負ってくださった。
全イスラエルの罪を負ったやぎが、イスラエルから遠く離れて行くように、主は私達の罪を、全てキリストに背負わせ、私達から罪を遠く引き離して下さる。
そのお陰で、私達はいやされ、彼のその身代わりの懲らしめの故に、私達に平安が与えられたのだ。
『主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。』(詩篇103:10-12)