メッセージ - 大贖罪日の実体なるキリスト(レビ記16:23-34)
礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の実体なるキリスト(レビ記16:23-34):右クリックで保存
『そして、アロンは会見の幕屋に入り、聖所に入る時に着た亜麻布の衣服を脱いで、そこに置き、聖なる所で水に身をすすぎ、他の衣服を着、出てきて、自分の燔祭と民の燔祭とをささげて、自分のため、また民のために、あがないをしなければならない。また罪祭の脂肪を祭壇の上で焼かなければならない。』(レビ記16:23)
大贖罪の日、イスラエル全体の贖いを為し終え、アザゼルのやぎを解き放った後、大祭司は、着ていた亜麻布の衣服を脱ぎ、今度は通常の大祭司服 - エポデやさばきの胸当てなど、栄光と美をあらわす大祭司の衣装 - に着替え、大祭司自身とイスラエルの民のために、全焼のいけにえを捧げる。
全焼のいけにえは、自らの全身全霊を捧げる事を意味するが、全ての罪が贖われ、清くされた後は、主に全身全霊捧げる思いを新たにし、この新しく始まった年を送ろうと決意するのである。
『これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。
この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。』(レビ記16:29-31)
この、第七の月・チスリの月(太陽暦では9−10月)は、天地創造を起源とした「新年」であり、第一の月・ニサンの月(太陽暦では3−4月)は、出エジプトを起源とした「月々の初め」である。(出エジプト記12:2)
新年七月の一日からの十日間、イスラエル人は、去年一年間の反省をしつつ、大贖罪日に備える。
大贖罪の日は、「あなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない」とあるが、具体的には、一切の仕事も、娯楽もせず、断食して祈りに専念する。
ユダヤ教を厳格に守る人は完全断食をし、水も飲まず、唾液さえ飲まず、悔い改めの祈りに集中して、自分の罪が贖われ取り除かれる事を祈る。
しかし、いかに”儀式”を厳格に守ろうとも、それら一連の定めはキリストによる完全な贖いの比喩であって、携わる人の良心を完全なものとする事はできない。
『幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。・・・この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。』(ヘブル9:7-10)
キリストは既に現れ、完全な贖いの務めを、まことの大祭司として成し遂げてくださった。
『キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。』(ヘブル9:11-15)
結局、大贖罪日の実体は、キリストである。
今や私達は、儀式によるのではなく、肉体による善行によるのでもなく、ただ、キリストが成してくださった完全な贖いによって、永遠に罪が赦され、呪いから開放され、永遠のいのちに入れられた。
私達はその尊い贖いを、軽んじたり、侮ったりしては決してならず、ただ、その事に感謝しつつ、喜びながら生かされて行くのみである。