メッセージ - 肉を食べる度に「礼拝」する(レビ記17:1-9)
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レビ記16章までは、いかにすれば罪が清められ、聖とされるのか、いかにすれば神に近づけるかについて語られていた。
イスラエルの民は、血潮や水の洗いによって清められ、身代わりの犠牲によって神に近づく事が出来たが、それらは全て、キリストをあらわしていた。
このレビ記17章以降は、聖められた民として、いかに日常生活を歩んで行くべきかについて記されている。
その冒頭の17章では、いのちをいただく事について、そして、いのちそのものである「血」についてのおしえである。
出エジプトの民は、牛や羊、やぎを、身勝手に屠殺してはならず、それを食す時は、必ず、主の幕屋の前に連れて来て、酬恩祭(和解のいけにえ)として捧げなければならなかった。そうしないのであるなら、その人は「血を流した者」とされ、民の内から絶たれる、とまで言われていた。(レビ記17:3-5)
酬恩祭とは、神と祭司と捧げる人とが、共に同じ動物からいただく、神と人との交わりの祭りであるが、いけにえとして定められている動物のいのちは、ほんのささいな肉であっても、必ず神を通し、祭司を通し、礼拝を通さなくてはならない。
もっとも、その事は、約束の地に入るまでの間、という期間限定であった。(申命記12:20-23)
一体なぜ、イスラエルの民は、出エジプトしてから約束の地に入るまでの期間、そこまで徹底して、牛や羊、やぎの肉を食べるごとに、「礼拝」というステップを通さなくてはならなかったのか。
それは、7節の御言葉から、エジプトにいた頃に染まってしまった「偶像崇拝」の習慣からの、「霊的毒抜き」のためと思われる。
このレビ記の命令が与えられた時は、エジプトから出てそんなに経っていない時で、体は出エジプトしていも、心は完全に出エジプトしていない民が多かった。
事実、民数記を見ると、イスラエルの民の心は幾度もエジプトへ傾き、エジプトへ戻ろうという扇動が幾度もなされたが、そのような人達は皆、荒野で打たれ、屍となって荒野に置いてけぼりにされた。
イスラエルの民が、以前の奴隷の国・エジプトの習慣から、完全に抜け出す。
その毒抜きのために、牛や羊、やぎなど、エジプトでは崇拝の対象となっていた動物をほふるときは、必ず主を通し、主の前で礼拝を行った。その事を、約束の地に入るまでの間、ずっと続けた。
同じように、私達も、脱出すべき以前の「世」の習慣があるかもしれない。
それは、例えば、お酒や性的不品行などの肉体的な悪い習慣かもしれないし、あるいは、すぐ暴力を振るったり暴言を吐くといった、性格的な悪い習慣かもしれない。
それらは、奴隷のように私達を縛り、新しい聖なる生活へ入ろうとする事を邪魔するが、それらは、イエスの御名と血潮によって、束縛から開放される事は可能である。
イスラエルの民が行ったように、そこから完全に抜け出すまでに、自分の中でそれに関わる全てにイエスの御名を通し、兄弟姉妹の祈りを通すのだ。
その事を一定期間続けるなら、段々、以前の悪い習慣や誘惑は、ものともしなくなって行き、やがて、その束縛を断ち切る事が出来る。
以前のエジプトでの習慣を断ち切りたくないがために、あるいは、御言葉に従う事を窮屈に思うために、モーセとアロンに逆らった者達が出てきたが、同じように、現代でも、健全な御言葉に逆らう者が出てくる事がある。
しかし、そのような者は、荒野で屍として取り残さ荒れて行ったように、そのような人は、自ら会衆から離れていく。そして彼らは決して安息には入れない。
今を生きる私達は、荒野を歩んでいるようなものかもしれない。
しかし、その荒野でしっかりと主からの訓練を受け、成熟するのであれば、約束の御国に入る資格が与えられ、永遠のいのちに預かる事ができるのである。