メッセージ - イエスのDNA(レビ記17:10-16)
礼拝説教メッセージ音声:イエスのDNA(レビ記17:10-16):右クリックで保存
『だれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。』(レビ記17:10-11)
肉のいのちは血にある、血はいのちそのものである、という事を、主は今日の箇所だけでも三度も呼びかけている。
そして、血を飲む者は、イスラエルから絶たれるとまで定めており、主はそこまで、血を重要なものとして位置づけている。
聖書の中で、血は、非常に重要なものである。
血の性質の第一は、今日の箇所からも見た通り、いのちそのものであり、また、神との契約のしるしとして有効なものである。
『そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。』(出エジプト記24:8)
『イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」』(マルコ14:24)
日本では、印鑑が契約のしるしとして用いられる。印鑑はその持ち主の人となりをあらわし、朱肉が印鑑の複雑な文様を大きく赤々と写し出している契約書を見ると、何か荘厳な気持ちにさせられるものだが、血は、印鑑よりも遥かに多くを語り、説得力がある。
事実、科学的にも、血の中には、多くの情報が隠されている。
すなわち、赤血球や白血球など血潮に含まれる全ての細胞には、DNA情報が組み込まれており、その持ち主の全ての情報が記されている。
血は、語る。血は、叫ぶ。血は、証しする。(創世記4:10、黙示録6:9-10、ヘブル12:24、1ヨハネ5:6-7)
不当に流されたアベルの血は、地面の中から主に向かって叫んだように、イエス様の血潮も、父なる神に向かって叫ぶ。
父なる神に対しては弁護を叫び、サタンに対しては、罪定めを叫ぶのだ。
また、血潮はきよめの役割を果たす。
『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。・・・
だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:13-22)
レビ記では、血を食べてはならない、その内にはいのちがあるから、と、血を摂る事を禁じていたが、唯一の例外がある。
いや、それどころか、その血を飲まなくては、いのちは無い、とまで言われている血がある。
それは、イエスの血である。
『イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』(ヨハネ6:53-56)
レビ記や、聖書の色々な箇所において、血潮がとても重要なものとして位置づけられている事の、全ての理由は、イエスの血潮に行き着くため、と言っても過言ではない。
イエスの血潮は、私達の罪を完全にきよめ、神に対しては弁護を叫び、サタンに対しては罪定めを叫び、私達が贖われた事の、完全なる契約の調印のしるしである。
私達も、イエスのいのちそのものである、その血潮を頂く事によって、イエス様のあらゆる優れたDNAが、すなわち、イエスの聖なるご性質、神の子としての完全なご性質が、私達の内にも、組み込まれるのである。