メッセージ - 近親相姦はなぜ良くないのか(レビ記18:1-18)
礼拝説教メッセージ音声:近親相姦はなぜ良くないのか(レビ記18:1-18):右クリックで保存
『あなたがたの住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。またわたしがあなたがたを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。また彼らの定めに歩んではならない。わたしのおきてを行い、わたしの定めを守り、それに歩まなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。』(レビ記18:3-5)
この章で、主は幾度も「わたしはあなたの神、主である」と言っており、あなたは、わ た し の お き て と 定 め に 従 っ て 歩 み な さ い、と特に強調している。
パウロも同じように、「もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。」と強調している。(ローマ10:5、ガラテヤ3:12)
もしイスラエルが、かつていたエジプトの風習に従って生きるなら、エジプトに下った災いを生きる事となり、入ろうとしている国・カナンの風習に従って生きるなら、主がカナンの人々をそこから追い払ったように、彼らもまた、祝福の地から追い出されてしまう。
しかし、彼らが主から与えられた御言葉によって生きるなら、主の中を生きるようになる。
それは私達も、同じである。
私達が、キリストにあって新しく創り変えられた者として生きるのなら、新しい永遠のいのちに生き、救われる以前の世の習慣によって生きるなら、呪いの内に生きるのだ。
エジプトやカナンの風習に染まってはならぬ。
主がその命令をされた時、真っ先に禁じられた事は、肉親や身内との性行為であった。
『あなたがたは、だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である。あなたの母を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。彼女はあなたの母であるから、これを犯してはならない。』(レビ記18:6-7)
ここで「肉親」という語は「肉」あるいは「肉体」という意味でもあり、創世記2:24の「人はその父と母を離れ妻と結び合い、ひとつ”肉”となる」という場面でも使われている語である。
つまり、実の母義理の母と性関係を持つ事は、母と一つ肉である"父"を辱める行為であり(7-8節)、孫娘と性関係を持つ事は、自分自身を辱める行為である。(10節)
他にも具体的に、自分の姉や妹、腹違いの姉妹、おば、息子の妻、兄弟の妻と、性関係を持つ事を禁じており、また、母と娘を同時にめとる事や、姉と妹の二人を同時にめとる事も、主は明確に禁じている。
「肉親」と交わる事は、エジプトやカナンでは、日常的に行われていた。
実際、アブラハムの妻サラは腹違いの妹だったし(創世記20:12)、ヤコブがめとったラケルとレアは互いに妹と姉だったし、モーセやアロンも、父とおばが結婚して生まれた子であった。その他にも、近親相姦の例はいくつか見いだせるが、イスラエルの民は、それほど、現地異教徒の風習に染まりやすかったのだ。
肉親と性行為を持つ事には、嫌悪を覚えるのが普通の感覚であるが、エジプトやカナンでは、そうではなかった。
それは、エジプトも、カナンも、同じ「ハム」の子孫であるが故である。
「カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」(創世記9:22)
この「見る」のヘブル語(raah)は、じっくり見る、楽しみつつ見る、等の意味がある。つまりハムは、敬うべき父の天幕に入り、そこで見つけた父の裸を、じっくりと見、楽しんで見、それでは飽きたらず、天幕から出て兄弟たちに言いふらし、来て、見るよう、招いたのだ。
肉親、特に父親の、裸を、性的秘密を、指さし、あげつらえ、吹聴し、一緒になって中傷するのは、サタンの道であり、子々孫々が呪われてしまう道である。
身内や肉親には、親密な愛情(フィレオー)のみ抱くのが普通だが、肉親同士が性行為にまで及ぶ所には、相当の情欲(エロース)を燃え立たせなければならないはずである。
エロースは奪う愛、破滅へと導く愛である。
親子同士・兄弟姉妹同士など肉親との性行為の結果、生まれる子も、その親に当たる男女も、とても不幸な境遇を生きねばならない事は、どの時代・どの国でも同じはずである。
エジプトやカナンでは、それをおかしい事とも何とも思われず、当然のごとく行われていたが、神の民は、そうであってはならない。
不自然な情欲に駆られた結果、はびこるものは悲惨と不幸であるが、しかし、たとい、そのような境遇にあって生まれた人でも、神にあって、希望がある。
『あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。』(レビ記18:5)
イスラエル一族も、モーセも、大祭司の家系も、肉親同士の結婚によって生まれた。
しかし、彼らに与えられた神のいましめによって歩む事によって、神にあって生きるようになり、神の民として、新しい生き方を歩むようになった。
それは私達も、キリストにあって、そうである。
『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲(直訳:男の欲望)にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(ヨハネ1:12-13)
人は、その生まれがどのようであっても、たとい肉親同士の情欲によって生まれたとしても、男が無理矢理に思いを遂げた事によって、生まれた命であったとしても、キリストを信じた人は、肉の欲によらず、男の欲望によらず、ただ、神によって新しく生まれた者とされるのだ。
その事は、人にとって大きな慰めである。