メッセージ - 乱れた性の行く果ては(レビ記18:19-30)
礼拝説教メッセージ音声:乱れた性の行く果ては(レビ記18:19-30):右クリックで保存
今回の箇所では、道を外した性的不品行を禁じている。
『あなたは月のさわりの不浄にある女に近づいて、これを犯してはならない。隣の妻と交わり、彼女によって身を汚してはならない。あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。また女も獣の前に立って、これと交わってはならない。これは道にはずれたことである。』(レビ記18:19-23)
性的な罪は、旧約でも新約でも、禁止事項としての優先順位が高い。
ガラテヤ5章にある肉のリストで、真っ先に登場するのは、不品行、汚れ、好色である。
また、エペソ人への手紙でも、パウロは次のように書いている。
『不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。』(エペソ5:3)
性的な罪は、なぜ重点的に気をつけなければいけないか。
それは、性的不品行は「その身を汚す」からである。今回の箇所だけでもそれらの行いによって「汚す」という言葉は、9回も登場する。
不品行を犯すなら、その身を汚す事となり、主の臨在を離れさせる事になってしまうのだ。
『あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』(1コリント6:15-19)
性的な交わり。それは、愛において一つ肉となる事であり、喜びと快楽を伴ったものであり、その成果として新しい命を生み出す、神の御胸に叶った、良きものだった。
しかし今や性は、ただ快楽を得る事だけが全面押し出され、愛も、いのちも軽んじられてしまった。
性的な交わりの中から、愛といのちだけが、すっぽりと抜き取られ、ただ快楽のみを得ようとする事、それは、実に大きな呪いをもたらす。
『あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。』(レビ記18:21)
モレクとは、子供を人身御供として捧げる偶像の神である。
子供をその偶像の手に乗せ、下から火を焚いて子供を焼き殺し、そのように「神に捧げる」という名目で、望まぬ命を断ったものである。そしてモレク神殿からは、子供の骨が大量に発掘されたそうである。
この「モレク」の意図は、現代の中絶と良く似ている。
日本の年間中絶数は、1950年代はなんと、100万以上だった。戦時中の死亡者数が310万だったのを見ると、かなり多い数値である。
それが近年徐々に減っていき、2005年でようやく30万台を割った。(国立社会保障・人口問題研究所 人口統計資料集(2012)より)
事実、日本には、水子供養の偶像がいたる所にある。
現在の日本の死亡原因の一位は「ガン」で、年間30万人ほどであるが、1950-2000年の死因のトップは、ずっと「中絶」だったわけである。
性は、いのちに関わる事であり、そこからいのちを抜き取って、情欲だけの、汚れたものとしてしまうと、どうなるか。
その人は呪われ、その土地から吐き出されてしまうのだ。
『あなたがたはこれらのもろもろの事によって身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い払う国々の人は、これらのもろもろの事によって汚れ、その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すのである。・・・これは、あなたがたがこの地を汚して、この地があなたがたの先にいた民を吐き出したように、あなたがたをも吐き出すことのないためである。』(レビ記18:24-28)
かつて世は、道を踏み外した行為のはびこりによって、一度滅びた事がある。
ノアの洪水の前、神の子たちは人の娘の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとり、ネフィリムが生まれ、そして暴虐が満ちて行った。
『主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。・・・時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。』(創世記6:5-11)
ノアの時代、道ならぬ性によっていのちが呪われ、虐待が虐待を生み、暴力が暴力を生み、憎しみが憎しみを生み、、、新しく世に生まれてくるいのちたちは、暴虐に満ちた世に、無防備にただ送り出されて行く。
神はどれほど心を痛められただろう。
その世界を一度、水によって全て洗い流した事は、神の憐れみではなかろうか。
性的に「道」を踏み外す事、それは暴虐が満ち溢れる元であり、呪いと滅びを招く元、その地から吐き出されて元である。
私達キリスト者は、御言葉に従って正しく愛し、正しく産み、神の御心に叶ったいのちを増やして行くためにも、福音を告げ知らせて行くべきである。