メッセージ - 主の祈り−日ごと必要な事柄(マタイ6:9-13)
主の祈り−日ごと必要な事柄(マタイ6:9-13)
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主の祈りは、真っ先に、天におられる「私達の」父なる神へ、すなわち今生きておられ、どこにいようとも見ておられ、私たちが生まれる前から、私達の成り立ちを知っておられるお方への呼びかけに始まる。
そして主の祈りの前半部分は、御名が高められるよう願い、御国すなわち「神の支配」が、私達のあらゆる面において行き届くよう願い、また、天において御心のみが成っているように、私たちという「地」にも、御心が成るように願う、そのような順序だった。
その順序は、そのまま私達が祈る時の優先順位で、自分ではなく、主をこそ優先させるべきなのだ。
神の国と神の義とを、まず第一とするなら、必要は全て備えられる事は、主も保証している。(マタイ6:33)
さて、主の祈りの後半は「我らのため」の祈りであり、その内訳は、日々、ひっきりなしに必要な事柄である。
その中で真っ先に祈るべき事は、「我らの日用の糧(原意:日毎のパン)を、今日も与え給え」である。
パン(食物)は日々必要なもので、食べない日々が幾日か続くならば、体は死んでしまう。
確かに、体の日々の必要が満たされる祈りは必要であるが、私達は肉体の必要についてだけでなく、霊的な必要も、日々備えられるべきであり、それが満たされるよう祈るべきである。
なぜなら、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による(マタイ4:4)からであり、霊において日々必要な「まことのパン」とは、イエス・キリストである。
また、日ごとのパンは「きょうも」与えられるように、と祈るのであって、何十年後でも大丈夫なような蓄えが与えられるように、とは祈らない事にも、目を向けるべきである。主は、何年も先の蓄えが備えられて、たましいに安心を言い聞かせている人に「愚か者」と言われた。(ルカ12:19)
主の御口から語られる御言葉は「日ごと」必要であり、今日受けたから明日はいらないというものでない。
人は飽き足りると、高ぶって、主を否む傾向がある。それ故、「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。」(箴言30:8)というアグルの祈りは、わきまえのある的確な祈りである。
続いて「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈るよう、命じている。
主は、わざわざ私達に、「我らに罪を犯す者を、我らが赦す」と、告白させている。
そう、罪の赦しは、まず「私達の側が赦す事から」始まるのだ。「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」(18:35)
私達には毎日の食料が必要なように、毎日の「赦し」も必要であり、その内訳は、まず私達の側が兄弟姉妹を赦す事であり、そうしてから、神が私達を赦して下さる事を求めるのである。
次に、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るよう命じている。
「試み」には、神様が私達を鍛えるために与えられる試練もあるが、ここの「悪」とは「悪しき者」(男性)とも訳す事が出来るため、悪魔から発せられる試みや誘惑の中から救い出して下さるように、という意味である。
イエス様も、「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(ヨハネ17:15)と祈られた。
私達が毎日食事を欠かさないように、悪しき者からの試みも、日ごとにやって来る事を、知るべきである。
エバが誘惑に引っかかってしまったように、私達は悪しき者からの誘惑にはことさら弱いものであり、日ごと、それに対抗すべきである事、また、日ごと神様からの守りを求める必要がある事を、忘れてはならない。
「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」
最後のこの頌栄は、古い写本には欠けており、後代の聖徒達による追加とも言われているが、現代、世界中で祈られている主の祈りに、この頌栄が入れられている事を許されたのは、主である。
祈りの中に、主を誉め称える「頌栄」を入れる事は、御心にかなった事である。
「国と力と栄とは、限りなく汝のもの」という賛美は、黙示録でも、贖われた聖徒達が御座につかれた子羊を誉め称える言葉であり、私達の口から、とこしえに絶やしてはならぬ賛美である。
日々の糧も、罪の赦しも、悪からの救いも、賛美も、毎日必要なものであり、絶やしてはならぬものである。