メッセージ - 聖なる民としての生活(レビ記19:1-10)
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「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(レビ記19:2)
レビ記19章は、一見すると、十戒をはじめとした様々な規定が、雑然と並んでいるかのように見えるが、この箇所は、イスラエルの人々が日常生活において、いかに「聖なる民」とされる、いかに「聖」を保って行くべきかが、示されている。
今まで記されてきた祭儀規定は、祭司の視点で分類的に記されていたのに対し、この章は、イスラエルの一般的な「生活者」としての視点で記されていると言える。
『あなたがたは、おのおのその母とその父とをおそれなければならない。またわたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 むなしい神々に心を寄せてはならない。また自分のために神々を鋳て造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。 』(レビ記19:3-4)
聖なる生活を送るための命令の中で、まっ先に命じられた事は、十戒の第五戒、母と父を敬え、である。
最も身近な権威者である父母を敬う事、それは、最高権威者である主に従う雛形であり、目で見える父母を敬えずしては、目に見えない神を敬う事ができない。
そしてそれは、末永く幸いな生活の約束を伴った命令である。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
なお、父母を敬う命令は聖書の他の箇所でも多く登場するが、「母と父」と、母を先に出しているのは、レビ記のこの箇所だけである。
父は一家の長として、権威的に先んじて敬われなくてはならないが、やはり「生活者」として最も頻繁に親しく接するのは、「母」の方なのだろう。
そしてその次の命令は、十戒の第四戒、安息日の尊守である。
世に出て働く人は、仕事に夢中になるあまり、主が聖別された安息日を忘れやすいため、順番的に先の方で命じられたのだろう。
主が礼拝するようにと定められた日を守る事は大切であるが、しっかりと「安息する」事もまた大切である。
続く命令は、十戒の第二戒、偶像の禁止である。
天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの、どんな像(イメージ)も作ってはならず、それに仕えたり拝んだりしてはならない。(出エジプト記20:4-6)
偶像(アイドル、イメージ)を崇拝する、とは、まことの主以外のものを神とする行為である。
異教の寺院などに限らず、実体を持たないイメージ、すなわち、イデオロギーや論理、時にはサイエンスや神学さえ、神よりも優先した「頼りどころ」という偶像となりうる。
私達は、「神以外のものを神とする」偶像崇拝に気をつけなくてはならない。
『酬恩祭の犠牲を主にささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。 それは、ささげた日と、その翌日とに食べ、三日目まで残ったものは、それを火で焼かなければならない。 もし三日目に、少しでも食べるならば、それは忌むべきものとなって、あなたは受け入れられないであろう。 それを食べる者は、主の聖なる物を汚すので、そのとがを負わなければならない。その人は民のうちから断たれるであろう。 』(レビ記19:5-8)
ここでは、酬恩祭(和解のいけにえ)で民が守るべき事を、日常生活者の視点で命じられている。
酬恩祭(和解のいけにえ)は、神と祭司と人とが、同じ一頭の動物を共に食するもので、民が捧げるいけにえの中で、唯一、民がいけにえを食べる事の出来るものであり、約束の地に入るまでは、牛や羊、山羊を食す場合は、かならず「和解のいけにえ」という儀式を通して食さねばならない事が、一七章で規定されている。
この肉を食べる際は、捧げた当日と、その翌日は食べても良いが、三日目は食べてはならない。
それは、冷蔵が出来ない当時の、衛生的の観点から、というより、主がそのように命じられた命令を尊守するためで、日が経って肉が腐っている・いない、の問題ではなく、主がNOと言うなら、してはならず、主がYESと言うなら、するべきなのだ。
『あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 』(レビ記19:9-10)
実りを全部独り占めする事は、汚れた人がやる事である。
聖なる主は、憐れみ深い。同じように、畑を刈り尽くさず、貧しい人々のためにとっておく事は、聖なる民の性質であり、地の実りを一粒たりとも残すまいと、畑を刈り尽くす事や、貧しい人や寄留者を憐れまない者は、聖なる民ではない。
全てのものは主のものであり、人を富ませるのも、貧しくさせるのも、畑を実らせるのも、実らせないのも、主の御手の内で為される事である。
だから私達は、与えられている恵みを、自分一人のものとせず、貧しい人には、主の代理として恵みを施し、そうする事によって聖なる主のわざに私達も加わるのだ。