メッセージ - 聖なる民のいのちの扱い(レビ記19:19-25)
礼拝説教メッセージ音声:聖なる民のいのちの扱い(レビ記19:19-25):右クリックで保存
『あなたがたはわたしの定めを守らなければならない。あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。あなたの畑に二種の種をまいてはならない。二種の糸の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない。』(レビ記19:19)
主は、生き物を色々な種類に従って創造され、一つ一つをそれ自体、良きものとして完成された。
それ故、それを不服として、人為的に別種のいのちとかけ合わせる事を、主は禁じている。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。』(2コリント6:14-17)
次に、婚約相手のいる女奴隷を、別の男が寝て交わる場合について、主は教えている。
『だれでも、人と婚約のある女奴隷で、まだあがなわれず、自由を与えられていない者と寝て交わったならば、彼らふたりは罰を受ける。しかし、殺されることはない。彼女は自由の女ではないからである。しかし、その男は愆祭を主に携えてこなければならない。すなわち、愆祭の雄羊を、会見の幕屋の入口に連れてこなければならない。そして、祭司は彼の犯した罪のためにその愆祭の雄羊をもって、主の前に彼のために、あがないをするであろう。こうして彼の犯した罪はゆるされるであろう。』(レビ記19:20-23)
こうした場合、本来なら、男も女も両方石打ちにされるはずである(申命記22:23-27)が、女が奴隷だった場合、他人の財産に損害を与えた場合の賠償が適用され、双方が殺される事は無い。
と言っても、男が愆祭の雄羊を捧げて、それで済むという話でもない。愆祭とは、「賠償」の意味もある事を、以前習った。
その男は償いをし、その女奴隷に対しては、出エジプト記21:7-11の規定どおり養って、食物と衣服を与えることと、その夫婦のつとめを絶えさせてはならない。
『あなたがたが、かの地にはいって、もろもろのくだものの木を植えるときは、その実はまだ割礼をうけないものと、見なさなければならない。すなわち、それは三年の間あなたがたには、割礼のないものであって、食べてはならない。
四年目には、そのすべての実を聖なる物とし、それを「さんびの供え物」として主にささげなければならない。しかし五年目には、あなたがたはその実を食べることができるであろう。こうするならば、それはあなたがたのために、多くの実を結ぶであろう。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記19:23-25)
ここは、約束の地カナンに入った時に、果物の木を植えた場合のその実りに対する命令であるが、このように、三年の間は誰もその実りに手を付けてはならず、四年目にはそれを「賛美の供え物」として主に捧げ、五年目から食べるようにすると、その木はとても多く実を結ぶようになる。
初物を主に捧げると、確かに、実り豊かになる。(箴言3:9-10)
律法を守っているイスラエルは、実に産物が祝福されており、現代でも、色とりどりの野菜を毎日たっぷりと食べられる。
「イスラエルは中東に位置し、国土の60%が乾燥地に覆われている。雨季は11月から4月までの間しかない。その降雨量は北部で平均700ミリ、南部では50ミリ以下である。ちなみに、農業県の新潟、高知、鹿児島の降雨量は1800ミリから2500ミリである。
この過酷な条件にもかかわらず食料自給率は93%以上を維持している。イスラエルの農業人口は8万人。一方日本の農業人口は400万人。現在の農業輸出高は21億ドルでほぼ同じだ。イスラエルは日本の50倍の生産性を持っていると言える。」(「食糧自給率」より「稼ぐ農業」!:日経ビジネスオンラインより: http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110124/218115/?rt=nocnt)
律法を尊守すると、農産物も、科学技術も、相乗効果で祝福されるのだ。
果物の実りは、三年間は「未割礼のもの」で、四年目の実りが「賛美の供え物(holiness of praises to the Lord)」と呼ばれる事は、実に興味深い。
私達は元々、くちびるの汚れた民の中に住んでおり、世から贖い出されたままでは、未割礼の者である。
そのくちびるを、賛美に用いるとするなら、罵詈雑言や呪い、下品な冗談など、汚れた言葉を一定期間、断食すべきである。
賛美のいけにえ、すなわち、御名をたたえるくちびるの果実(ヘブル13:15)を捧げる者が、もし、罵詈雑言や呪い、下品な冗談などを、世の人と変わらずに続けているとしたら、そのような「果実」を、果たして主は受け取るだろうか。
賛美とのろいが同じくちびるから出てくるような事はあってはならない。
賛美のいけにえは、礼拝中やステージで歌っている「その時」が良ければいいというものではない。
果実は、人間の誰にも味わわせない三年間、そして、四年目には神にのみ捧げる事、それを通してこそ、実り豊かなものとなる。
それと同様に、賛美の果実も、人間の誰にも味わわせない整えの期間と、神にのみに捧げる賛美があってこそ、人々を恵みへと導く賛美ができるのである。
セミは、六年の地中生活を経て、七年目に、自由に空を駆け巡るが、その地中での6年も、全部ひっくるめた期間が、セミの一生であるように、賛美も、人前で歌う時だけが賛美ではなく、その背後にある、誰にも人間には味わわせぬ期間も、神様のみに捧げた心や思いも、それら全てをひっくるめたものが、賛美なのだ。