メッセージ - 死刑に処せられる罪 - 親子関係(レビ記19:26-37)
礼拝説教メッセージ音声:死刑に処せられる罪 - 親子関係(レビ記20:1-9):右クリックで保存
レビ記20章には、「**する者は、必ず殺されなければならない」という言葉が幾度か出てくる。
すなわち、この章は、死刑に相当する刑法が記されている所であり、現代では「えっ、そんな事で死刑になるの?」と思えるような内容もある。
しかし、「**する者は、必ず殺されなければならない」という内容を見る時、神は何を忌み嫌われるかを、また、私達が聖とされる上で何をすべきで、何をすべきでないかを、知る事が出来る。
その中で、真っ先に禁じられている事が、モレクに子供を捧げる事である。
『「イスラエルの人々に言いなさい、『イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。わたしは顔をその人に向け(KJV: set my face against that man)、彼を民のうちから断つであろう。彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚したからである。』(レビ記20:2-3)
モレクとは、自分の子供をその像の手に乗せ、下から火で焼き殺して捧げる、残酷な異教の神である。
それをする者は、石打ちの公開処刑に処せられ、主ご自身もその者に敵対して顔を向け、その者を断たれる。
しかし、イスラエルの歴史では実際、子をモレクに捧げるという事が起きてしまった。(詩篇106:34-43)
モレクに子供を捧げていた場所は、エルサレム近のく、ヘブライ語で「ゲーヒンノーム」(ヒンノムの谷)、ギリシア語で「ゲヘナ」と言われる所である。(2列王記23:10)
主は、そのような事をする者はもちろん、その事を知っていながら目をつぶり、その者を裁かなかった者に対しても、主は敵対される。
『その人が子供をモレクにささげるとき、国の民がもしことさらに、この事に目をおおい、これを殺さないならば、わたし自身、顔をその人とその家族とに向け、彼および彼に見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべて民のうちから断つであろう。』(レビ記20:4-5)
また、死者に伺いを立てる者に対しても、主は敵対され、その者を民の内から絶たれる。(レビ記20:6)
『だれでも父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼が父または母をのろったので、その血は彼に帰するであろう。』(レビ記20:9)
イスラエルにおいて、父母は神の掟を伝える役割が託されており、子供にとって父母は、神の代理で権威を行使する立場であり、その権威に逆らう事は、神である主に逆らう事と同じである。
また、父母は、人が従うべき権威の、最も身近、最も基本であり、それに逆らうとするなら、その人には「権威」という概念が無くなってしまい、そのような人達がはびこると、親子や社会、国家の、そして、神の権威という概念まで軽んじられてしまう。
父と母を「のろう」事は、それだけ大きな罪であると主は定められている故、私達はその事に拒絶反応を起こすのではなく、その事に心を留め、父や母を敬うべきである。なぜならそれは、末永く幸いな生活の約束が伴っている事だからだ。(エペソ6:1-3)
『ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。』(レビ記20:7)
この御言葉から分かるように、主こそ聖別「する」お方、私達人間は、聖別「される」側である。
私達も、主から聖別していただくには、まず、自分は聖なる民であるという自覚を持ち、自分の聖でない性質は悔い改めて捨て去り、主に清くしていただこうという意志をもって主に近づくならば、主がその人を聖別して下さる。
『あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。』(1ペテロ1:15-16)