メッセージ - 死刑に処せられる罪 - 性的な罪(レビ記20:10-21)
礼拝説教メッセージ音声:死刑に処せられる罪 - 性的な罪(レビ記20:10-21):右クリックで保存
死刑に相当する罪の内、今回の箇所では特に「性的な罪」が取り上げられている。
『人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。』(レビ記20:10)
基本的に、夫がいる身の女性と性的関係を持つなら、共に死刑、と定められている。
他にも、父の妻と寝る者(11節)、息子の嫁と寝る者(12節)、男同士で性行為をなす者(13節)、母とその娘とを一緒にめとる者(14節)、動物と寝る者(15節)は、必ず殺さなければならない、と定められている。
神様は、創世当初から男と女とに造られ、「ふたりは」一体となる事を定めとされた。
これらの箇所で、具体的に示されている行為は、「ふたりは一体となる」という「性」と「いのち」の尊厳を、踏みにじる行為である。
『人がもし、その姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘に近づいて、その姉妹のはだを見、女はその兄弟のはだを見るならば、これは恥ずべき事である。彼らは、その民の人々の目の前で、断たれなければならない。彼は、その姉妹を犯したのであるから、その罪を負わなければならない。人がもし、月のさわりのある女と寝て、そのはだを現すならば、男は女の源を現し、女は自分の血の源を現したのであるから、ふたり共にその民のうちから断たれなければならない。』(レビ記20:17-18)
これらの事をした場合、その者は「絶たれる」と言われており、「絶たれる」の言葉の意味は「捨て去る」「追放される」という意味もあるし、「抹殺される」意味もある。
そのような事をする者は、イスラエルの人々の目には全く触れぬよう、除き去ってしまうべきだ、という事である。
『あなたの母の姉妹、またはあなたの父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親の者を犯すことであるから、彼らはその罪を負わなければならない。人がもし、そのおばと寝るならば、これはおじをはずかしめることであるから、彼らはその罪を負い、子なくして死ぬであろう。人がもし、その兄弟の妻を取るならば、これは汚らわしいことである。彼はその兄弟をはずかしめたのであるから、彼らは子なき者となるであろう。』(レビ記20:19-21)
「おば」を犯す者は、子なくして死ななければならないと定められている。
このような、近親の内部で情欲を燃やして生まれてきた子は、生涯、その近親からも、また自分自身からも、憎しみや蔑みを負って生きる事になってしまうし、また、親に姦淫の行動パターンがあると、それが子にも移ってしまう。
だから、そのような者は、子を残さないほうが良いのだ。
列王記や歴代誌を見ると、主の定めを忠実に守った世代のイスラエルは、必ず栄え、幸いになり、栄誉を増し加えたが、主の戒めを軽んじ、ことに偶像礼拝や姦淫の罪を持ち込んだ世代のイスラエルは、必ず衰えた。
レビ記で定められている主の戒めは、家庭に幸いをもたらす掟であり、悲惨な子は決して生まれない掟であり、性といのちが祝福される掟だからである。
では、そのような境遇で生まれてしまった子は、どうなるのだろう。
幸いな事に、キリストにあって、救いの道はある。
『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、「人の欲(直訳:男の欲望)」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(ヨハネ1:12-13)
また、姦淫の現場で捕らえられた女に対するイエス様の行動も、私達には慰めである。(ヨハネ8:1-11)
姦淫の現場で捕らえられた女は、必ず殺さなければならない、と、レビ記に記されていたが、イエス様に「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われた時、人々は誰も、彼女に石を投げられなかった。
姦淫に限らず、人は皆、罪があり、誰しも、律法の基準に達し得る者は、いない。
だから、私達には抜本的な罪の赦しが必要であり、その赦しへの飢え渇きによって、人はキリストへと導かれるのである。
『律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。』(ガラテヤ3:24-25)
『それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。』(ローマ6:15-16)
律法で「してはならない」と定められている事は、神様が忌み嫌う事である。
イエス様も姦淫の女に「もう罪を犯してはならない」と言われた。
私達は確かに、恵みの故に、信仰によって救われ、新しく生まれた者とされたが、そうであるからには、それに相応しく歩むべきであり、もはや死の向こう側へと逝ってしまった罪汚れを、恋い慕って歩んではならない。
『ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。』(レビ記20:7)