メッセージ - 大祭司に要求される聖の基準(レビ記21:10-24)
礼拝説教メッセージ音声:大祭司に要求される聖の基準(レビ記21:10-24):右クリックで保存
続いて、大祭司に対する命令である。大祭司は、普通の祭司と比べ、より高い”聖”の基準が求められている。
『その兄弟のうち、頭に注ぎ油を注がれ、職に任ぜられて、その衣服をつけ、大祭司となった者は、その髪の毛を乱してはならない。またその衣服を裂いてはならない。』(レビ記21:10)
大祭司は、神の聖と美をあらわす特別な衣服を身に着けている。悲しい事が起きたからと言って、それを破ったりしてはならない。それは、神よりも自分の感情を優先させ、神の聖と美を台無しにしてしまう行為である。
大祭司カヤパは、イエス様が神の子キリストである事を宣言した時、冒涜の言葉を聞い、だから悲しい、という事で服を引き裂いたが(マタイ26:65)、彼は実は律法を破っていたのである。
また大祭司は、父や母が死んだからと言って、その死体に触れてはならないし(11節)、聖所から出てもいけない。(12節)
大祭司として特別な任職の油が注がれ、神の聖なるつとめを任じられたのに、それを放棄して、聖所から出て死人を弔いに行く事は、神よりも死人を優先させ敬う行為であり、神の聖所を汚す行為である。
また大祭司は、結婚についても、普通の祭司よりさらに高い基準が求められている。
『彼は処女を妻にめとらなければならない。寡婦、出された女、汚れた女、遊女などをめとってはならない。ただ、自分の民のうちの処女を、妻にめとらなければならない。そうすれば、彼は民のうちに、自分の子孫を汚すことはない。わたしは彼を聖別する主だからである』」。』(レビ記21:13-15)
普通の祭司の場合は、寡婦(夫に先立たれた女性)と結婚する事は禁じられていなかったが、大祭司の場合は、禁じられている。
一度結婚した経験のある女性や、処女ではない女性を妻に迎える事は、やはり、初婚の男性にとっては、嫌な事である。(創世記38:8-10)
大祭司は、そのように、夫婦生活の事で心煩わされて、聖なるつとめがおろそかになってはならないし、また、大祭司の母となる女性が、以前に性関係を持った男性の事で心煩わせたり、不必要なわだかまりを持ちつつ子育てをして、子孫を汚す事をしてはならないのだ。
続いて、神の食物(いけにえ)を捧げるという、祭司の特権的な務めにあずかれる資格について、主は命じている。
『主はまたモーセに言われた、「アロンに告げて言いなさい、『あなたの代々の子孫で、だれでも身にきずのある者は近寄って、神の食物をささげてはならない。』(レビ記21:16-17)
祭司として、神の食物を捧げる事のできる資格とは、その身に欠陥が無い事、である。
『すべて、その身にきずのある者は近寄ってはならない。すなわち、目しい、足なえ、鼻のかけた者、手足の不つりあいの者、足の折れた者、手の折れた者、せむし、こびと、目にきずのある者、かいせんの者、かさぶたのある者、こうがんのつぶれた者などである。』(レビ記21:18-20)
ここにはその具体例が書いてあるが、いずれも先天的あるいは事故の結果など、本人にとっては不慮に受けてしまった障害である。
このような人達はなぜ、神の食物を捧げる務めをしてはならないのだろう。
神は、障害者差別をしているのではない。事実、彼らは祭司の働きをしなくても、祭司だけが食べる事のできる食物にあずかる事ができる。
ただ神は、神への捧げものに関しては、完全を求められているのだ。捧げられるいけにえにも、それを捧げる祭司にも。
旧約の祭司は、キリストのひな形であり、キリストは、罪も、傷も汚れも無い、完全なる真の大祭司である。
『あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。』(1ペテロ1:18-19)
また祭司は、神と人との仲介者であり、祭司がつとめを行なっている姿は、どうしても人目に触れるものである。
人は、外見によって心が左右されやすい。
いけにえを捧げる祭司に、外見的な欠陥があると、どうしてもその事に目が行ってしまい、神の事に集中できないような、信仰の弱い人も、中にはいる。
この事から、牧師や奉仕者は、外見的にも、内面的にも、人のつまづきとなるものを取り除くよう、気をつけるべきである。
家庭環境や事件事故などから、不慮に受けてしまった心身の傷、汚れの行動パターンは、癒し清めていただく方法が、私達にはある。
『あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。』(コロサイ1:21-23)
ここに記されている通り、私達は、キリストにあって、聖く、傷なく、非難されるところのない王族の祭司として、御前に立たせて下さるのだ。